【超絶特大悲報】さいとう元彦、さっそくN国と横山緑と暗黒インターネッツ民を尻尾切り

これからの快適なインターネッツライフにはNoLogVPNとTorが必須になってくる。
残念ながら仕方がない。

そのうちTorやNoLogVPNだけでは飽き足らず、仮想マシンやQubesOSも必要になってくるだろうが今はまだ語らないでおこう。

ともかく斎藤が維新の元サヤにおそらく戻りそう(少なくとも維新と議会運営では協力しそう)だということは、立花とメスイキ(おそらく中田敦彦も)悲願の放送電波利権解体も遠のいたということだ。


オールドメディア解体、インターネッツの勝利どころか、インターネッツは規制されて関西メディア電波利権と維新系べったりの状況は変わらんという最悪の結末になってしまった。

尻尾を切られた以上、我々は逆に付かざるを得ない。

兵庫県職員も横山緑のようにさいとう知事の車に唾を吐いたり靴にデカピタを流し込んだりして仕返しすれば良かった。

宅八郎や村崎百郎のように家の地盤にコンクリート溶剤を仕込んだり車のボンネットに鳩の餌を仕込んでフンまみれにしたり漁ったゴミから弱みを握ったり深夜に爆竹を投げ込んだりして復讐すれば良かった。

フェミニストは「弱者男性はなぜ強者男性と戦わないのか」などとほざいているが、だったら兵庫県職員も宅八郎のように"処刑"を敢行すれば良かったのである。(まあ宅八郎は小林よしのりへの"処刑"を敢行した結果干されちゃったんですが

当時、「擬似イジメっ子」という造語は社会評論にとどまらず、ボクをテレビ局の楽屋裏で恫喝してきた集英社契約編集者への批判に伴うものだったのだが、それ以降もボクはイジメについては継続的に触れてきた。ひどく簡単に言えば、「イジメられっ子による復讐の物語」の提示だ。もちろん読者や視聴者からは過激視された。

過去にあったオタクを取り巻く「迫害」という状況や、イジメの構造をともなうマスメディアのあり様に対して、ボクは「復讐の物語」を自分自身、体を張っての「言行一致」を貫き通したために(それは「実験」でもあったかもしれない)、94年には小学館事件の別件で不当逮捕されることとなり、95年にはマスコミとの闘いの顛末を単行本にもまとめた(『処刑宣告』〈太田出版〉)。
                    (中略)
ボクは過激な復讐者と化した際には「裁くのはボクだ!」と叫んできた。天罰が下るではなく、「ボクが下す」と。
もはやテロリストである(苦笑)。社会から過激視され、ボクの逆襲だけを見て「宅八郎はひどいな」と悪の側にみなされもした(量的には「過剰防衛」という理も「倍返しで良い」とする理も主観にすぎない)。ただボクは、自分に対する悪い社会的評価はある程度構わないと考えてきた。天に唾するような言動を自覚している以上、言動の結果はとっくに覚悟している。それは最低限の責任感である。
ボクは思う。リベンジャー宅八郎のように「悪魔」や「死神」を名乗ることまではともかく、真の復讐者は必ずしも絶対的「正義」とは言えず、闘う上では「悪」とされても構わないくらいの必死さ、切実さ、覚悟、責任感は求められると思う。

「宅八郎の処刑日記 」大津市いじめ自殺事件とネットと宅八郎自身

こんな時に鮫島が生きていたら・・・

兵庫県職員は鮫島に金を払って斎藤への復讐代行を頼むべきだった。天下りと退職金がなくなることを考えれば安い買い物である。