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独りでに喪に服す。
人生、喉元過ぎればなんとやら。
喉元を過ぎていったその熱を、再び感じることはないのだろうか。
今日はせっかくの代休日だというのに仕事をしている。
ずっとパソコンに向き合っているわけではないが、気にかけていないといけない。
私は性格的に、何かを気にかけてしまうと他のことが手につかない。
その何かを整理して、片づけない事には何もできない性格なのだ。
だから、客観的に見つめ直せば色々できた1日も、結局仕事しかしていない。
そんな1日に私も慣れてしまったような、諦めかけているような。
会社への不満もフツフツと溜まっていたような気がしていたが、段々、怒りが収まってきている自分もいる。
喉元過ぎればなんとやら。
4年間付き合っていた彼女と別れることになった。
2024年はお互いに同棲に向けた準備をし始めようと話をしていた。
1年かけて価値観を擦り合わせて、大事にしたいことが何かを一緒に探していって行こうと。
11月くらいから家探しをしようね、なんて話をしていた。
私は同棲に向けて、お金を少しでも貯めようと思い5年間続けていた一人暮らしを6月末で終えて、実家に帰ってきていた。
けれども、私たちの人生は終わりを迎えた。
湧き上がる疑問は数知れず。
正直、どうしてこうなったのかを理解できていない自分がいる。
別れてからの私の頭の中を、脳内メーカーで表すとしたらきっと
「謎」が8割を占めていて「呆」と「怒」が2割くらいか。
「悲」とか「寂」は思う間もなく、疑問符が浮かび続けていた。
同棲に向けて、価値観を擦り合わせていた1年ということで、よく考えればその擦り合わせが上手くいかないリスクもあったのだろう。
どんなことも、いつだって良い事ばかりが起こる訳じゃない。
ふたりで同じ人生を歩む準備を進めていくならば、歩んでいけない可能性も視野に入れておくべきだったのだろう。
私は完全に油断をしていた。甘かったのだ、私が。
ただ、私は呆気に取られている。
こんなにも呆気なく、終わるものなのかと。
ただ、そこに怒りも悔しさも、正直感じていない。
いや、感じていたのかもしれない。
しかし、そんな気持ちもどこかへ消えた。
いずれにせよ、互いのことを思うことが、信じることができなかったのならば、既に関係性は破綻している。
今更、何を思おうが、破綻している関係性に用事はない。
4年間の終わりを迎えた9月頭。
それから2か月弱。ずっと、やんわり、静かに喪に服していた。
私の4年間の感情を噛み砕き、成仏させる必要があったからだ。
「もう終わったことですよ」と自分に伝えるために、2か月が必要だった。
この気持ちが整理できるまでは私は何も手につかない。
仕事をしないと、という焦燥感に邪魔された今日1日の過ごし方がまさに体現しているんだろうな。
昇華させるために?
それとも当てつけをしようとしている?
自分も自分のことがよく分かっていない訳だが、
いま私はマッチングアプリを手にして、人との出会いを探している。
表面的な文章と、写真を通して、勝手に人の人生を吟味している。
どんな人生を送ってきたのかも、どんな苦しさを乗り越えてきたのかも、どんな死にたい夜があったのかも知らない他人を、薄い言葉と余所行きの写真で選択している。
勝手にその人のことを分かった気になっている自分がどうにも気持ち悪い。
ただ、私のよくない部分を思い返したりもしている。
私は友達付き合いが苦手なこともあって、4年間、彼女と過ごす時間をどんなことよりも優先にしてきた。
そのおかげで、私は他者との出会いが皆無であった。
人と知り合って、楽しいことを考えたり、ワクワクする未来を語り合うことがあんなにも好きだったというのに。
そんなことに気がつくこともなく、私一人の人生を、ふたりの人生に重ねてしまっていたのだろう。
危ない危ない、危うく私の望む未来のせいで、私の好奇心を潰すところだった。
私は私の心を守らないといけない。
私は私を守る義務があるのだ。
私以外、私のことを守る人はいない。
結局自分のことが一番可愛いじゃないですか。
とか、そんなクソみたいな言葉で表して、自分を正当化させたい訳じゃない。
可愛くなくたって、私の人生、私以外誰が生きてくれるのよ。
私は忘れていた。
そうだそうだ、人はいつだって独りなんだった。
この感情が私の原動力なんだった。
あまりにも長すぎた夏の終わりが見えてきて、何を着ようか迷い始めている。
実家に帰ってきたものの、まだ荷物が片付いていない。
一人暮らしの家から持って帰ってきた洋服と
実家に置きっぱなしにしていた洋服。
少し前までの自分と、実家を出る前の5年前までの自分が部屋の中で重なり合っている。
ふと、思う。
最後に服をちゃんと買ったのっていつだろう。
私は自分のことに無頓着だ。
服装も髪型も、何一つこだわりがない。
極論、捕まらずに外に出れればなんでもいいのだ。
2019年にも好きだった人と、揉めて、世界で一番遠い存在になったことがあって、その時に変わらなきゃと思って服を買っていて
どうやら、その時にストレス発散するかのように大量に服を買って以来、きちんと買っていないらしい。
期せず訪れたこの機会、活かさずにいられるものか。
転んだとてタダでは起き上がらない。それが私の信条だ。
自分のなりたかった自分になろう。
どんな自分になりたかったっけ。
そして、何でそれを諦めてきたんだっけ。
自分には似合わないから?自分らしくないから?
何でそんなことを思い始めたんだっけ。
父に笑われるのが怖かった?自分でつくった、自分の像に苦しめられてる?
なんでだったっけ。
9月頭にお別れをしてから、まもなく2か月。
喪に服す期間をそろそろ終えなければならない。
そろそろ、2か月も前の出来事を私自身の「やらなければいけないことをやらない言い訳」にするのはそろそろ疲れてきた。
人生に悲観なんてしている暇は私にはない。
私の人生はまだまだ何も始まっちゃいなくて、これからなのだ。
色んな社会に、色んな仕事に、色んな場所に、色んな遊びに、色んな人に。
これからたくさん出会っていこう。
11月より、また1から歩いて行きます。