【音楽の話】ZUTOMAYO FACTORYにいってきた。
4/16(土)と4/17(日)にさいたまスーパーアリーナに行ってきました。
この2日間は、ずっと真夜中でいいのに。のライブがあったのです。
ずとまよ、のライブに行くのはこれで5度目&6度目。
2019年8月「夏休みLIVE 〜水飲み場にて笑みの契約〜」
2019年10月「潜潜ツアー(秋の味覚編)」
2020年11月「やきやきヤンキーツアー(炙りと燻製編)」
2021年5月「CLEANING LABO『温れ落ち度』」
どれも印象的だったけど
一番衝撃的だったのはやっぱり初めて観た19年8月の夏休みLIVE。
探り探り行ってみたライブだったのだけど、こんなに踊れるライブだとは思ってもなく。
「サターン」という、遠くにいる人の事を思って少し不安になったり自信を無くしたりするけど、健気に生きてみるって感じの音楽があるんですけど
これがライブでこんなに化けるなんて思っていなくて、度肝を抜かれたのを今でもハッキリ覚えているのです。
ちなみに今回のライブでも2日間とも、「サターン」はとても大切な位置づけだったように思えるし、個人的には主役だったかなと。大切な曲。
私の音楽偏愛歴は色々あちこちに寄っていて、洋楽、昭和歌謡、J-POP、アニソン、アイドル、ジャニーズ、ロック、K-POP、ハワイアン、インスト……
ライブもある程度の現場には行ったことがあるつもりだったのだけど、ずとまよのライブは初めての感覚を味わった場所で、どうも毎回行ってしまう。
(21年の果羅火羅武ツアーはチケット取れなかった)
それは、会話をしている感覚。
もちろん、ライブなので音楽を聴いているんです。
MCだってあるけど、特段別にMCが長いわけでもない。
コール&レスポンスだって、しゃもじを叩くくらいで別にそんなに多いわけじゃない。
シンガロングだって、[Alexandros]みたいにはちゃめちゃに多いわけでもない。
KEYTALKみたいに振付がある訳でも、サカナクションみたいに変則的な手拍子がある訳でもない。
基本的には音楽を通してのコミュニケーションしかないのです。
なのに、会話をしている感覚がある。
勝手な思い込みだけど、ずっと真夜中でいいのに。の、ACAねさんは自分の感情や考えをどんどん言葉にして、饒舌に口から発することはきっと、恐らく苦手な人なのだと思う。
だからどうこうとか、そういう話じゃなくて、そういうタイプの人なんだろうなって言うだけの話。
私が友達付き合いが苦手なのと同じように、それ以下でもそれ以上でもなく。(関係ないか)
どこかたどたどしく始まるMC。ぼそっと語り掛ける、観客に向けての独り言のような言葉は舞台上でいつもふわふわと浮かんでいる。
そんなACAねさんが、音にのせて歌う度に、ACAねさんの心の中に溜まりこんでいた負の部分だったり、過去の朧げな記憶だったり、弱い部分が音楽になって昇華していくように見えてくる。
その音楽にのせて広がる言葉を身体を通して受け止めていると、広い会場なのにACAねさんと一対一で会話をしているような感覚になる。
ずとまよの曲は、言葉遊びが多い。
だから歌詞を見ているだけじゃよく分からない音楽が多い。
(私の理解度が足りないだけの可能性は大いにある)
MVやサイトにもヒントが隠れていたりするから、新しい作品が発表されるとTwitterではみんな分析をして、過去の作品とのつながりを探したり、何かが転がっていないかを探し回っている。
だけど、私は昔から"音楽"の"音楽以外の分野"にあまり興味がない、というか興味はあるんだけど中々手が伸びない。それを興味がないというのかもしれないけど。
ずとまよに限らず、どんなに好きなアーティストでもMV、TV、雑誌、出演ドラマとかにほとんど手を伸ばすことが無い。
「あの曲聞いた!?」は会話になるけど「あのMVみた!?」は返答に困る。「ドラマ出てたよね!!!」「次のあれ表紙じゃん!!」とか言われた瞬間に残念ながら会話終了。頭に入ってきてないから。
だから、私の向き合い方は音楽と言葉だけ。
ずとまよも御多分に洩れず、音楽と言葉しか身体に入ってこない。
ずとまよの音楽のなかに、心地よい言葉遊びと同じくらい散りばめられているのは、人間としての弱い部分のように思う。
私はそこがたまらなく好きで、今も聴き続けている大きな理由の一つ。
音楽と言葉しか入り込まない私に、脆さと寂しさが沁み込む。
今回のさいたまスーパーアリーナでの二日間、ACAねさんが口にしていた言葉で印象的だった2つがある。
その想いから生まれた曲です、とささやいたACAねさんは広い舞台上にポツンと佇む電話ボックスの中に閉じこもり歌い始める。
電話ボックスでしゃがみこみ、言葉を絞り出すACAねさんを客席から眺める。
毎回、毎回、ACAねさんの姿を見ていると思う。
恐らく口下手で、恐らく不器用であろう人が音楽に言葉を乗せることでこんなにも感情を爆発させることができるのか。
音楽があることで、出会うはずのなかったACAねさんと会話ができる。
見ず知らずの人間が備え持つ弱さに、勝手に自分の過去を重ね、涙したり消化したりするわたし(たち)。
ずとまよが素晴らしいから?
それはそうなんだろうけれど、それで終わらせてしまっては信者でしかなく。私たちの生活はずとまよがいようがいなかろうが、これからも続いていくし、営んでいかなければならないわけで。
ACAねさんが言葉にする孤独や、虚しさや自分が消えていくような感覚を「分かるよ!」って頭で理解して共感するのではなく、「あの時の私だ」って探し当てることができた自分がいるからこそ、初めて会話が成立するのだと思ったのでした。
また会話しに行けますように。
次のツアーは仕事が忙しすぎて先行申し込み忘れました。やべ。
行けるかな。
#ずっと真夜中でいいのに #ずとまよ #ZUTOMAYO #ACAねさん #音楽と過ごす
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