思い出してしまった記憶を ― KANA-BOON「桜の詩」
人ってあっけなくいなくなるのだと感じる瞬間がいくつもあって。
ちょっとした言葉遣いが何だか許せなくて、自分の中で勝手に壁を作ってしまった時だったり
昨日まで腹を抱えて笑ってたのに、卒業という区切りを迎えて綺麗に関係が途絶えてしまった時だったり
互いに想い合っていたはずなのに、気がつくと世界で一番遠い存在になっている時だったり。
別れだと認識できている別れもあれば、別れだと感じることが無いまま消えていく別れもあり。
どんな別れ方が良いのかは26年生きただけじゃ全く分からないけど、その別れに囚われて息ができず藻掻くのであれば、「今はこれでいい」と納得させて歩くことも一つの生き抜く術なのかもしれない。
それが今、そばに居てくれる人に対して失礼に当たるのかもしれないけれど、そうでもしないと顔を上げて生きていけるほど強い人間ではないのだ、申し訳ないことに。
生暖かい風の中に隠れている寒さを感じるこの季節は春と呼ぶにはまだ早い気もするけれど、冬とはもう呼ぶことができない気がする。
少しずつ匂いが変わっていく空気を肌で味わうこの季節は毎年毎年、自然と涙がこぼれそうになる。
年々、思い出してしまう人が増えた。
社会人になってから、出会いなんてものは早々なくて。
それは恋愛的な意味ではなく、学校の教室のような環境とはもう違うということ。
ただ生きているだけで、無条件に友達と呼べる人が増えていくあの感覚はもうないわけで。
そうすると否応なしに別れを実感する割合が多くなる。
正直、まだ生きていようがもう死んでいようがどうでもいいような人もいれば、もう忘れたとか言ってそっと頭に浮かんでしまう人もいたり、心と身体の温度感の違いを実感する季節でもあって。
出てくるな、出てくるな、と唱える人ほどすぐ出てくる。
頬にぶつかる風が無理やり記憶を引っ張り出してくる。
なんだよ。
頭に浮かんでしまった人に、今、対峙したら何を口に出すのだろうか、なんて無意味なことを考える。
言いたいことは山ほどある。聞きたいことも山ほどある。
それほど囚われている自分がいる。
そんな自分を情けないと思う。醜いと思う。いなくなれと思う。
それでも、そう感じてしまったのだから仕方がない。
会うこともなければ口にすることもないことも分かってる。
無意味な無駄なゴミみたいな想像でしかないのも知ってる。
これまで後悔という感情を抱かずに生きてしまった自分が、初めて後悔と出会ってしまった出来事はそう簡単には私の中から消えていってはくれないんだろう。
五感で覚えてしまった出来事の彩りの強さを思い知らされる。
会いたくない、いなくなってしまえと思うことで得ているものは安心感なのかもしれない。
街角で目にした話題を貯めこんで、ふと、その話題を口にする相手は遠くにいることを実感したりする。
その寂しささえも感じていないことにして夜に溶け込もうとする。逃げている。
もはや解決できないほど、手は届かないほどに距離は開いてしまったし、自分を納得させるしか生きていく手段が残されていない。
だからせめて寂しさなんて感じていないことにする。
大丈夫だと思い込ませる。
それでも思い出してしまうのはこの風のせい。
風のせい?本当に?
好きなように思えばいい。
この風があなたにもぶつかればいいと思いながら2022年の春を過ごす。
KANA-BOONの「桜の詩」を聴いていてそんなことを思ったのでした。
思い出せる別れがあるって、悪い事ばかりじゃないと思うのよ。
生きてきた実感を得る瞬間でもあるのだから。
経った月日の分、私は強くなるし、どんどん肌もモチモチになってるよ。
空回りしながら一生懸命生きていた過去の自分に敬意を。
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