キラキラ
日々たくさんのことを頭の中で考えているけど、考えるだけで言葉にしたり人に伝えたりすることをしないので、どんどん頭で考える癖がついてパンクしそうになる。
アウトプットが本当に苦手だ。
こうやって自分の気持ちや考えを文章に書こうと行動に移すのにかなりの時間がかかるし、むしろ書けている時点で相当アクティブだなと思うくらい。
何をするにも行動までに時間がかかるのは、頭で考えて終わってしまうから。
時間がある時にしようとか、今やっても完璧にはできなさそうだからとか、理想ばかりが先行して動きを縛っている。
私はInstagramやTwitter(X)やnoteや日記などの自分が書いた文章を人に見られるのが苦手だ。特に恋人や友人や家族など身近な人には見られたくないと思う。だから恋人にもSNSは教えていないし、そもそもSNSの投稿頻度も低い。
それがなぜだろうと今朝ふと思って考えてみたら(また考えている)、普段私は人に対してその人に合った私を取り繕ったり、言葉を選んでいるから対人ではない自分の言葉を人に見られるのが恥ずかしいのだと思う。
SNS全般を特定の誰かに届ける形で書いているわけではないし、日記なんかは完全に自分のために書いているものだから、「人に合わせたり人が望んでいる」が軸にある言葉や行動以外のアウトプット全般が苦手なんだと思う。
相手が望んでいるであろう言葉ならどれだけ恥ずかしいことでも言えるのに、自分本位の小さい望みは絶対に言えない。言葉にすることも、こうやって自分の目に見える形で表現するのもかなり気力がいる。
そうしていくと本当に自分が言いたいことや望みが分からなくなってくる。
いつも人にために動いていたことがいつの間にか自分の意思なんだと思い込んだり、言って欲しい言葉を吐いていたらそれが自分の本音なんだと勘違いしたりする。自分で書いていて心底怖い。けど、そうやって大切な人のために動いたり、言葉と紡いだりする自分もまた自分なんだと最近やっと受け入れることが出来始めている。
人のためばかりで自己犠牲になるのは良くないから、もっと自分本位になってもいいんだよと自分に言い聞かせながらも上手くいかなかったこともある。もちろん全人類に合わせることはできないししなくていい。大切な人にためならこうしようという気持ちが強いことで行動するきっかけになったりもするし、必ずしも人に合わせがちな人が損をするわけではないと思っている。
ただ人を大事にする分、自分も適切に大事にしていかなくてはバランスが取れない。だからこうやって重い腰を上げて文章を書いている。
本当は書きたくてたまらないし言いたいことも沢山ある。だけど人に合わせることで自分の気持ちが分からなくなっていることを自覚するのが怖い。だから自分のことを表現することを避けてきたのかもしれない。でも、この筋肉を鍛えないと私は私でいられなくなりどんどん苦しくなってしまう気がする。膿が溜まっている状態が当たり前になっていて吐き出す術も分からなくなってしまう気がする。
人を思うことや察することは私にとっては当たり前にできることであるけど、自分の気持ちを表現したり外に出したりすることは鍛えないとできないのかもしれない。自分のためにもこの筋肉は鍛えていきたいと思っている。誰のフィルターも通さない私から出た言葉たちを大切にしていきたい。拙くても、完璧じゃなくても、人に褒められなくても、求められなくてもいいから、ただ自分の言葉を紡いていった先に何があるのか知りたい。