描き手の自己愛・自己陶酔が他者の感動を呼ばないどころかスルーされる理由
前回、私も身に覚えがあるような、と思って読んでいたら後半であれ、だいぶ違うようだぞ、となったnoteについて思うところを書いた。
で、書いてからも暫し考えたのだけど、結局のところ私とそのnoterさんで何が決定的に違うのか。
…を一言で言い表すと、「自己愛・自己陶酔に対するスタンスの違い」であると思い当たった。
件のnoterさんは「自己愛・自己陶酔は当然」派と見える。
一方私は「描いている最中の自己愛・自己陶酔はまったく作品に寄与しないどころか作品の質を落としかねない害毒である」派である。
この辺りのことは、すでにかなりくどく書いた記憶がある。
たとえば文章を題材にしてるけど自己陶酔と自己表現の違いについて考察したシリーズのnote。関連・類似noteのリンク多数。↓
同シリーズの自己陶酔の作品と自己表現の作品の違いを考察したnote↓
同シリーズのなんで自己愛自己陶酔を作品に混ぜちゃアカンのか、そしてその心理的機序を考察したnote↓
同シリーズのなんで自己愛自己陶酔作品がアカンのかの考察note2↓
同シリーズの読者側の感動がどうやって生まれるか(あくまで自分の場合の実例)、感動・共感できる作品と独りよがりの作品の違いを考察したnote↓
…などなど。
それぞれのnoteに関連・類似noteへのリンクが貼ってあるので気になる方はそれらもご参照願えれば。
しかしここで誤解してほしくないのは、自己愛は人間の自己保存という本能に根差した必要悪なので、自己愛を心頭滅却してなくせ!と言いたいわけでは決してない、ということである。
これについてもすでに過去に書いた↓
ただ、元から人間に本能の裏機能としてセットされてる(と私は現時点で考えている)自己愛を、表機能として世間を渡るに当たって振り回す行為は、自他を問わずためにならないと感じる。
そして、本来はその自己愛は成長に従って他者との関わり合いの中でよりバランスの取れた自己承認、自己肯定感に繋げていくものなのだと思う。
つまり、自己愛が自己愛のまま自我に固着してしまってる人は、幼少時に満たされなかった欲求が残ってる人なのだと思う。
他者のそれとぶつかる自分のエゴをどうやって解決つけるのかを本来成長とともに学んでいくべきところなんだけど、おそらくそうならなかったがために。
もっというと幼少時に尊重されなかった記憶がずっと傷になってるので、そのまま傷ついた自己の幼少時の欲求が「他人はみんな私を(それまで尊重されてなかった分)尊重しろ!尊重しろ!」とずっと叫んでるのではないかと想像している。
あれ、なんか本来書く予定だった内容と違うくなってきてるな。
本来の話に戻すとそんな難しい話ではなく、単純な話だったのだが。
ええとつまり、表題の
描き手の自己愛・自己陶酔が他者の感動を呼ばないどころかスルーされる理由について
である。
その答えは
「自己愛、自己陶酔しながら描いた作品は自分しか視野にないから」だと思う。
では自分以外が視野にある状態とはどんな状態か?というと。
たとえばそこに「自分はこれが好きだけど、『他人にもわかってもらえるといいな』」という視点が入ってくると、他者視点への考慮が芽生える。
そうなると自分しか視野にないという状態ではなくなる。
これは「飛んだ」状態ではないが、バランスよく閲覧者に受け入れられやすいパターンである。
もうひとつ、逆パターンがある。
それは自分の癖を純粋に追求したら没頭しすぎて自我も吹っ飛んでしまった場合である。
こちらは「飛んだ」「ゾーンに入った」と言える状態になる。
先のnoterさんの視点はつまり、上のどちらのパターンにも当てはまってないのではないかと思われる。
後者の典型例は前にも例に引いたことがあるんだけど、ヘンリー・ダーガーっていうオタクのご先祖様ね。
彼は自己陶酔ではなく無心になれる(「飛べる」、ゾーンに入れる)からひたすら作ってたんだと思う。
冴えない自分の日常からの逃避ではあるけど、本当に心が「飛べる」と、その日常にも耐えられるから。
物語の力のひとつってそれだと私は思う。
あと日常や現実からの逃避で通常レベルを超越したといえばまずニジンスキーが浮かぶ。
彼も実務的なことは苦手だが、バレエ(の舞踊およびその振り付け)特化型の異能の天才である。
この「日常や現実からの逃避で描いてる」こと自体は先のnoterさんも一緒だろう。
では、この方とヘンリー・ダーガーやニジンスキーとの違いとは何なのか。
それこそが「自我が飛ぶほどの集中(没入)力」だと思う。
ヘンリー・ダーガーは自分の作品を誰にも見せずに亡くなった。
彼に住居を提供していた大家さんは彼が老人施設に移る時、部屋の中のものを捨ててくれと彼に言われていた。
つまり、彼は自分の作品を終生人目に晒すつもりはまったくなかったのである。
しかしそれを、アーティストでもあった大家さんが、彼の残した作品の存在と価値に気づいて外部に発表し、作品と彼の部屋をそのまま残したのである(部屋はのちに大家さんの死後解体、中の物は別の場所に保存された)
この、
誰にも見せる予定も、
見せる前提すらも放棄した、
自分のためだけの、
偏執的なまでの自己内面世界への、
徹頭徹尾の没頭。
ここまで貫けるのは、むしろ自らの人生のすべてを創作の神に捧げた、敬虔な信徒の姿であると思う。
それが彼の作品を前にした時の、尋常ではない異様な迫力の源ではないか。
ああ、また大脱線してしまった。
結局ここで言いたいのは、件のnoterさんの「描いてる時は楽しい」は、しかし
「オキシトシンボーナスのない閲覧者が自分と同じくオリキャラをかわいいと思ってくれるわけではない、という客観的事実を無視してるのではないか」
ということと、さらに
「描いてる自分すら忘れて完全に日常や現実から遊離し自我をなくすほどの集中まではしてないよね?」
という話である。
特に後者に関しては、完全に現実の自分からも手を離し、今描いてるオリキャラが「かわいいかどうか」すらも考える次元を超えた、たとえば「この子(オリキャラ)はこう考えているのか、感じているのか、こう動きたいのか!」だけに集中してはいないよね、という疑問を感じるのである。
言い換えると、かわいいはずのオリキャラに魂を吹き込むほどには自我から手を離してはいないよね、ということである。
要は、この方の本音は「オリキャラ(に魂を吹き込む)<<<自分の立場」、オリキャラより自分がかわいそう、が大事なのではないの?という話である。
その免罪符のように魅力的に描いてあげられなくてオリキャラに申し訳ない、みたいなことを折々に書いてはいたけど。
本当にオリキャラに心から申し訳ないのであれば、「私かわいそう」も忘れるほどそのオリキャラの内面からガッツリ作り込んでくっきりはっきり描き上げればいいのではないの?
内面からガッツリ作り込んでくっきりはっきり描けたオリキャラはそれまでなんとなく描いてたそれとは明らかに違う手応えが描いててはっきりあるはずだと思う。
そこまで没入できた満足感ってチャチな自己顕示欲や承認欲求なんか吹き飛ばすほどのインパクトがある。
そしてヘンリー・ダーガーはその満足感を確実に知っていたので何の見返りも求めずとも描き続けられたのだと思うし、その手応えを頼りに没入し続けることができたのだと思う。
そう、私の最大の疑問は結局そのnoterさんの「オリキャラへの思い入れ」より「自分かわいそう」の方が上回っているように見えること。
逆にヘンリー・ダーガーは自分を投げ捨てて自分のオリキャラたち(ヴィヴィアン・ガールズ)に奉仕した、自分のオリキャラ、そして創造の神への殉教者だったのだと思う。
あと、
「オキシトシンボーナスのない閲覧者が自分と同じくオリキャラをかわいいと思ってくれるわけではない、という客観的事実を無視してるのではないか」
については、この方が悪意で無視してると言いたいわけではない。
自分かわいさが勝って第三者からの客観的視点を完全に失念しているのではないかということを危惧しているのである(まあ部外者のよけいなお世話なんだけど)。
つまり、どちらのパターンにしてもこの方の最優先事項はあくまで自分自身であって、第三者視点も、オリキャラへの思い入れも二の次である、というのが本音であるように見える。
言い換えるとこのnoterさんが言葉で言うほどにはオリキャラを愛していない、少なくとも自分自身以上には。
というように見えるのである。
だから「自分かわいさ」「自分かわいそう」を描いてる最中にも手放せない(ように私には見える)この方の作品は、最終的にはその自己憐憫が最大のテーマになってしまっているのではないかと思う。
でも、そこは冷静に考えてみていただきたい。
第三者の閲覧者にとっては、作者の「自分かわいさ」「自分かわいそう」は見たいテーマであろうか?
ご自分が閲覧者の立場なら、他人の「自分かわいさ」「自分かわいそう」が興味惹かれる題材と感じられるものであろうか?
少なくとも私はそういった作者の自己愛や自己憐憫には興味がないけれども。
だから、
「自分しか視野にない=自己愛、自己陶酔しながら描いた作品」
は他人からスルーされる、と私は結論付けたのである。
他者との普遍的な感情の共有性、他人との繋がりを持とうという意識がそこにはカケラもないからだ。
仮にたとえばナルシスト同士が2人並んでいても、自分以外に興味が湧かない同士では互いに交感し合うことは永遠にないだろう。
よしんば片方だけがナルシストだとしてもう一人が仮にナルシストに興味を一時的に持ったとしても、ナルシストが永遠に自分にしか興味を持たなかったら結局関係は切れてしまうと思う。
つまり、ナルシストと恒久的な関係を結ぶのは難しいと思うのだ。
一般的には。
まあ、心優しい人はそうじゃないかもしれないけど、少なくとも私はナルシストに持たれかかられて食い物にされるのは真っ平ごめんである。
ではナルシストの自己陶酔に付き合わされるのが真っ平ごめんの私がどんな作品に惹かれるのか、というのは上記でリンク済の過去noteにて既出である。
…というわけで、(意図的か否かに関わらず結果的にであっても)自己愛、自己陶酔、自己憐憫が一番のテーマ(主題)になってしまった作品のままでは、普遍的な共感性の欠如のために他者からの支持は得づらいのでは?
という結論になるのだった。
思わぬ長文になってしまった。
へばね。