歌謡から文芸へ
「八雲立つ」
ご存知最古の和歌と呼ばれる歌の冒頭。
noteに来て短歌や俳句と言う詩歌に触れるようになった。
「短歌は五七五/七七の上下から成り、俳句はこの上の部分に季語がある」
ざっくり言えば、わたしにはこれが型の基本だと、学校で習う常識くらいのレベルで染み付いている。
ならばその成り立ちは?と考えた。何となくネットを調べていたら(リンクがうまく作用しないが、検索で出てくる)
記紀歌謡と定型
記紀歌謡と定型 続
と言う日本文学研究者、西條勉氏の文献が目に止まった。結果から言うと「止まってしまった」が正しい🙃
和歌の定型は、その目覚めを記紀歌謡の中に求める事ができるという内容の論文だ。
この中での各検証は長くなるので書かない←
結論付けられている内容をざっくりまとめると、このようになる。
○記紀歌謡とはなんぞや
物語に合わせて創作した歌謡と、民間で歌われていたものを宮廷が取り込み、再編集した歌謡の主に二種類があり、民間から離れた段階で、定型への目覚めがあった。
○何故編集によって型ができてきたのか🤔
編集する際に、メロディーを捨てて歌詞をヨミアゲ、つまり誦詠をする事で、言葉そのもののリズムが浮き上がってきた。
メロディーに頼らないリズムで、それぞれ収まりのよい形に落ちついた。結果、その多くが五七の繰り返しだった。決して文字数を数えながら当てはめていったわけではない。
また、新しく改変された歌謡も、文字だけではなく、宮廷にて実際歌われたものも多かった。
○記紀歌謡の中で認められ、育った和歌の型とはいかなるものよ😕引用しよっかな🙄
つまり和歌の目覚めの段階では、短歌は
「五七五/七七」の上下では無く
「五七/五七+七」だったようだ😳そして叙述性があったらしい🙄
はて、これはいつ頃まで続いたのか?
この辺りの話を、何人かの方と話してみた。
万葉集の歌が例に出たので、同じようにちょっとやってみる。
語句の内容を考慮の上、改行して見るとわかりやすい。
春過ぎて夏来たるらし
白妙の衣ほしたり
天の香具山
ところが同じ万葉集でも、そう変わらない時代、むしろ年代的には先に作られたであろうこちらの歌は
あかねさす紫野行き標野行き
野守は見ずや君が袖振る
ご覧の通りだ。
記紀は帝紀旧辞を原資料にして書かれたと言われている。
帝紀旧辞の成立は敏達ー推古のあたりでは無いか?との見方が多い。そしてこの時代から歌舞司があったとも言われている。
これはわたしの推測に過ぎないが、この時代の歌舞司の面々において宮廷歌謡が成立したのかな?と、感じた。
そして記紀歌謡は、宮廷歌謡をそのまま載せていると、上の文献にも書かれているので、その後、飛鳥中盤から奈良時代にかけて、より自由度があがり、多様性が開花し、歌謡から和歌と言う文芸に大きく発展していったのでは?と、まーそんなところに落ち着いた(⌒▽⌒)
実際上下の方が、音としてのバランスや収まりが良いと個人的には思う。
実際奈良時代に連歌の原型ができたとされる。この段階では明らかに
五七五 上の句
七七 下の句
となり、その後の連句、俳句への萌芽の足音が聞こえてきそうだ。
またその後、長い短歌の歴史の中、現代も含めて必ずしも上下の境で切れない歌もあるし、自由度が高いのはご承知の通りだ。
さて、知るよしもない古代の民間歌謡とは、いったいどのようなメロディーを持ち歌われていたのがろうか。
雅楽は宮廷音楽なので、もっと素朴で、感情のたかぶりがあらわになった音楽だったのだろうか。
オリジナルは、民間の婚礼祝賀の歌謡だったのではないか?と言われている短歌がある。それが記事冒頭で触れた「八雲立つ」だ。
最後にこの歌を書いて終わりたい。
八雲立つ出雲八重垣
妻ごみに八重垣作る
その八重垣を
(詠人 スサノオ様😬)
悠凜さんが土曜絵画で描かれたスサノオさん。お借りしました🧡
歴史を扱うと、言葉を変えてごまかすが「と言われている」系が多くてなんかヤダ←
#記紀歌謡 #和歌の定型 #コラム #エッセイ
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