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「はたらく」と「母」の両立について、渡英して2年の心境の変化

私は、自分の会社で育休と産休を取得した一人目の社員でした。
テレビ番組制作会社という、職種を聞いただけで『激務』が想像される職種です。
第一子を妊娠した時の私の頭の中は
「産んでも働けるという証拠を見せつけてやろう」という思いでいっぱいでした。

出産予定日の2週間前まで働いて、1ヶ月前までカメラ持って撮影に行きました。
そして、きっかり9ヶ月休んで、仕事に復帰しました。
会社が求めたのではありません。私は、妊娠しても出産しても働けると証明したかったのです。

夜7時からある会議に出席するために、保育園へ娘を迎えに行ってから、会社に娘と共に戻り
会社の洗面台(私の会社はマンションの一室にありました)で娘にシャワーを浴びさせて、会議に出席します。
長女は人懐っこいので、手が空いている他の社員、時々社長が面倒を見てくれました。
会議が終わると、会社の車にチャイルドシートを設置します。夜9時、車に乗せて寝かせながら帰る。という荒技をしたこともありました。

帰りの新幹線が数分遅れて、保育園の20時の迎えに間に合わないと、東京駅をダッシュで走ったこと。
夫とスケジュールの調整が上手にできず、妹に子どもたちのお迎えを急にお願いして叱られたこと。
夜22時にどうしても夫婦揃って会社に行かなければならず、夜だけ従姉妹にきてもらって、朝まで家に居てもらったこと。

こんな武勇伝の数々を、イギリスに引っ越してから知り合った、中東の軍医をしているママ友に話したら、
「軍隊の仕事よりも休みがない」と驚かれました。

とはいえ「夕方17時にオフィスから消えて、夜10時以降には電話に出ない」というのが私の普通の日々でした。
深夜1時に1回だけかかってきた電話に出なかったという理由で「仕事を放棄して消えたディレクター」という烙印を押されたこともあります。

夕方の会議で急に何かが変わっても、私は帰らなければなりません。
私が担当するはずだった企画を、翌朝には別のディレクターが編集していたこともありました。

「なんでもやります」「どこでも行きます!」という私の仕事スタイルは封印され
「5時に帰ります」「それはできません」「夜は働けません」と、私は変化しました。

そうか「はたらく」と「母」はテレビのしかも、下請けの会社では両立できないのか。と、徐々に心をすり減らしました。そんな時に、第二子を妊娠しました。

第二子を出産してすぐ、とあるテレビ局のプロデューサーから電話がありました。
「はたらく母だけでチームを作りたい。時間帯が合う人と仕事をしたい。」
私は喜んで、バラエティの現場から、ニュースの現場に身を移しました。

これまでとは考えられないほど、働きやすくなった一方で、
スーパー仕事ができる女性に囲まれ、少しずつ、疑問が増えていきました。

私は、そんなに仕事ができる方ではありません。
普通のテレビマンです。でも、母である限りは「スーパー仕事ができる人」にならないと、両立ができないのか。と焦りました。

そんな時、私の頭の中には、長女の育休中に1ヶ月住んだイギリスが思い出されました。
キッズウェルカムな国で、誰もが子どもや赤ちゃんに、びっくりするほど優しいイギリス。
ここで、子育てをしてみたい!一度、キャリアを止めてもいいのではないか。

そして、勢いに任せて、夫のもう1つの故郷、イギリスに移住して2年が経ちます。

イギリスの私が住んでいる地域には、日本のように質が良く、お財布にも優しい学童などというものはありません。
子どもたちの学校は15時前には終了します。
学校の登校下校も親が同伴です。

毎日、子どもの帰宅が夕方18時半だった時と、全てはガラッと変わりました。

働く時間はグッと減り、言葉の問題もあって、テレビのディレクターはもうしていません。
それでも「もっと輝くべき場所に光を当てたくて」広報PRの仕事を始めました。

でも、時々、日本から仕事があって、撮影の現場に行くと、あまりに楽しくてびっくりします。そして、どうしてこんなに体力の削られることを日々できたのだ。とあの時の自分にびっくりします。

物理的に仕事と距離を置いたことで、子どもたちとの時間はグッと濃くなりました。その分、お財布はペラッペラに薄くなりました。

仕事には代わりがたくさんいますが、子どもたちにとって、母に代わりはいません。

私は幸いなことに、やりたかった仕事を思いっきり、全力でやり切りました。
少しの未練はあるけれど、今はこの日々が幸せだなぁと心から思っています。


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