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1966年生まれ。尾崎豊さんの「卒業」がリリースされた年に高校を卒業して。

先週の放送を見逃してしまったので、今週「SONGS」を見た。http://www6.nhk.or.jp/songs/

この年齢になると積極的に年齢を出さない女性もいるが、私は1966年に生まれたことを誇りに思い、嬉しく思っている。

今では言われなくなったが、丙午だった1966年は多くの夫婦が子供を産むことを避けた年。実際、出生数は、この年だけかなり少ない。

私が生まれることができたのも、奇跡だったりもする。そして、産んでもらえたことに感謝している。

若い世代を見て、この時代に生まれていたら、今の時代だったら、もっとできることがあると思うこともある。

ただ、学年ひとつ上である尾崎豊さんの曲をリアル10代として聴いて過ごし、彼の「卒業」がリリースされた年に高校を卒業したことを本当に嬉しく思う。

私が作詞家という職業を17歳で決めた理由はいくつかある。

●バイト先の有線で流れていた渡辺美里さんの「My Revolution」の“夢を追いかけるなら たやすく泣いちゃダメさ ”という川村真澄さんの歌詞。

●同じようにバイト先で流れていた、「15の夜」。「僕が僕であるために」勝ち続けることをずっと考えている。

音楽が人にくれる勇気を、18:00~20:00まで毎日働いた靴店で私は夢を育てた。

大学受験で目指した大学に入ったいたら、もしかしたら守りの人生を歩んだかもしれない。ただ、受かるといわれた学校を3つ落ち、浪人は許されず入った学校で、私は夢を明確に持つことになる。

17歳で決めた「作詞家になる」を本気で考えた。
田舎の小娘が、インターネットも携帯電話もない時代に、やれることはなんでもやった。

詳しいことは別の記事に書いているが、13年をかけ30歳で作詞家になった。
実際なってみると、自らが歌わない私に与えられた役割は小さいものだったが、それでも誰かが私の書いた言葉についてつぶやいてくれているものを見つけると生きていてよかったと思う。

尾崎豊さんのような、生き方は与えられなかったが、それでも最大に1966年に生まれたことに感謝し、あと7年後に生まれてくる、出生数が減らないだろう丙午の人たちにメッセージを送りたい。

人生は意外と楽しい、と。孤独は意外と悪くない、と。

根っこでは、群れることやつるむことができない私は、世渡りはそこそこできるが、正直うまくは生きられていない。

そんな私は、彼の言葉で生き続けることができた。彼が生きた時代にこの世に存在したことに感謝しかない。
先に逝ってしまった人は、常に偉大過ぎる。

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