「ミドリムシが動物か植物か考える」中で、読んだ本の内容やそこから学んだことについて書き留めるnoteの【17回目】です。
僕はミドリムシの分類について考えるにあたって、分類学史も押さえておく必要があると感じています。そこで今回は、分類学の歴史についてコンパクトにまとめられた本を読みました。
相見滿・著『分類と分類学:種は進化する』(2019年 東海大学出版部)
まず一般的なレビュー
タイトルが『分類と分類学』だったので、一般的な意味の「分類」と、学問としての「分類学」の性格の違いを強調して説明してくれるものと期待していたのですが、そこはあまり説明が無かったように思います。
主な内容は、現代に至る分類学の歴史の紹介であり、特に種概念の定義にまつわる議論が中心になっています。本文100ページほどの比較的コンパクトな本で、通読しやすかったです。
読みづらかった点として、引用部分と著者の主張部分が区別しづらい構成になっていると感じました。以下の記事内でも、著者の主張かのように他の学者の主張を引いてしまうところがあるかもしれません……。
初期人類 ― 民俗分類学の知見
分類学の歴史の、一番はじめはいつ頃でしょうか? 多様で無数の生物たちをいくつかの種類に分けて認識するだけであれば、人類は学問の発達以前からそれを行ってきたろうと思います。有史以前の人類の分類観を直接調べる方法は無いわけですが、【民俗分類学】による推測が有用であるようです。
本書では、無文字社会の人々の分類観に見られる一般原則が8項目紹介されていました。いくつか興味深いものを取り上げます。
ここ、重要そうですが理解が難しいです…。
階層的な分類が、人類にとって自然に行われるのは、なんとなく分かります。生物に限らずいろいろな概念がそのようになっていると思います。
「それぞれの階級に割り当てられた分類群はお互いに排他的」というのも、まあ分かります。群間の境界が曖昧すぎては、そもそも分類概念として使い物にならない気がします。それに、分類は排他的であるのが当たり前、という背景があってこそ、ミドリムシのような動物・植物のどちらとも言いづらい存在が問題になります。
民俗分類学では、「植物」とか「動物」といった概念は、【唯一の創始者 unique beginner】という分類階層にあたるそうですが、これは無文字社会で「名前が付けられていない」階層なのだそうです。
これって当たり前のことなんですかね?? 想像するに、人類の歴史上、最初期に捉えられる分類概念はおそらく「個物」でしょう(言語哲学で固有名が問題になるのも、ここと関連しそうです)。その後、いくつかの個物をひとまとめにして扱える分類概念が生まれ、さらにそれを包括する分類概念が生まれ……というように、次第に高次の分類概念が生まれていくとする。この場合、より高次の分類概念ほど、人類史上、後になってからでないと生まれてこない傾向はありそうですから、確かに、包括度の高い分類概念は無文字社会では珍しいのかもしれません。
それにしても、「名前が付けられていない」ということは、無文字社会では普通、「動物」や「植物」の概念が無いということですよね??(名前無しに概念だけあるなんてこと無いですよね??) 本当でしょうか? 驚きです。
それに、「動物」「植物」がもっとも包括的な分類階層ということは、「生物」なんていう更に包括的な概念は、無文字社会には全く存在しないのでしょうか? この辺りは掘り下げ甲斐がありそうなので、また追い追い関連の書籍や論文を読んでみたいと思います。
16世紀 ― チェザルピーノの植物分類
生物学史や分類学史の本では、有史以降の最初期のトピックとして、古代ギリシャのアリストテレスの業績が紹介されることが多い気がします。しかし本書では初期人類の分類観について触れた後は、いきなり16世紀の分類学の話に移ります。
科学的な目的(とは…?)のために植物標本が作製され、整理されるのはこの頃からなのですね。本書では当時の植物学者チェザルピーノの植物分類の方法が紹介されていました。
僕はまだアリストテレスの哲学の特徴を良く分かっていませんが(関連書籍はたくさん買ってあるのですが…)、たしかに次のような考え方はアリストテレスっぽいのかもしれません。
アリストテレスの考える【本質】については、『名指しと必然性』を読んだ時に少し触れました。
たしか、アリストテレスの自然哲学の特徴に、目的論的な性格があったかと思います。つまり、植物の生活には何らかの目的があり、その目的のために植物が持つ、そうでなくてはならないような性質、それが植物の本質であるということでしょう。だからチェザルピーノは植物を分類するとき、「植物の生活にとりもっとも重要な機能を支える器官に基づいて行わなければならない」と考えたのでしょう。
結局チェザルピーノはどういった器官を重視して植物を分類したかというと、まず第一に、生長に深く関わりある特性として木本か草本かの区別を重視したようです。さらに第二に、生殖に深く関わる器官である花と果実の構造に基づいて植物を分類したようです。
さらにチェザルピーノは、はじめて生物の"種"概念の定義を明確に打ち出したといわれます。
18世紀 ― リンネの人為分類
次もいきなり時代が飛んで、18世紀の分類学者、リンネ(1707-78)の活躍が紹介されます。リンネは超有名な学者で、彼の行った分類作法の一部は現在でも生物学のルールとして採用され続けています。最も有名どころでは、学名の名づけ方でしょうか。
リンネは主著『自然の体系』(初版 1735)等を通じて、学者にとって「実用的」な分類体系を提示しました。この体系は、雄蕊や雌蕊の本数を基準にして植物を分類したり、指や爪や歯の特徴に基づいて動物を分類したりするもので、検索表と呼ばれる性格の分類体系だったようです。目の前にいる生物が何という種類の、何と名付けられた生物なのか同定する際に、一つ一つの特徴をフローチャートをたどるように順番に見ていくと、特定の生物種に絞り込むことができるというものです。
リンネは、自然物について研究するためには自然物を正確に識別する能力が必要なのだということを、『自然の体系』の中で次のように記しています。
自然物を識別するために使いやすい検索表的分類体系を作り上げたリンネですが、他方で、それとは違ったタイプの分類体系を求める野望も持っていたようです。それは【自然体系】とか【自然分類】とか呼ばれるものです。自然分類とは何か、というと、これも複雑で一意的な説明は無いと思うのですが、自然の中にありのまま存在しているはずの、自然法則とでもいうような客体的な分類体系のことかと思います。チェザルピーノが追究した植物分類は、実態がそうなっているかはさておき、こちらの方面だったでしょう。「ものの本質は、認識者がもっている言語的枠組みなり理論的枠組みなりによって決まるものではなく、認識者とは独立のものである」のです。
客体的な自然分類というものが本当に存在するのか分かりませんが、少なくともリンネはそれを信じて追い求めたようですね。特に彼は牧師の家庭に生まれた敬虔なキリスト教徒だったので、自然分類とはつまり"神"の意図であったようです。神はこんなにも多様な自然物を、何故、どんな意図をもって創造したのか。それを追い求めることが彼の自然分類追究だったのでしょう。
以前読んだ本『生命への考察』では、「自然の相互関係とは血縁関係のことであり、自然分類法は系統学に外ならぬと言うことになる。」とされていました。これはつまり進化論を背景に、生物種間の血縁関係を反映した分類法こそが自然分類であるという主張ですね。リンネの活躍した当時はまだ進化論は流行っていないでしょうし、種の間に血縁関係があるとも想定されていなかったことでしょう。リンネの種概念には、キリスト教的世界観がはっきりと現れています。
しかし、種は神による創造の時点から不変であり、新種が後から生まれることはないという以上の考えは、植物の研究を通じて次第に揺らいでいったようです。
しかし新種分化の具体的メカニズムは、リンネには分からないままでした。そこに大きく迫るには、ダーウィン(1809-82)の活躍を待たねばなりません。
ところでリンネの『自然の体系』は、なにも生物に限定された分類の本ということではなくて、鉱物も対象に含まれる、自然物の体系の本です。そこでリンネは、鉱物・植物・動物の区別について言及しています。
僕の調査にとっての本丸はここですね。動物と植物の区別。リンネによれば、鉱物も含め自然物はすべて「成長」し、鉱物と異なって、植物と動物は共に「生き」、動物だけが「感覚」を持つ。「感覚」の有無が、植物と動物を区別する境界なのですね。では、具体的に「感覚」とはどんなもののことなのか? リンネの基準に照らすとミドリムシはどちらに分類されるのか?? とても気になりますが、今回読んだ本の範疇では良く分かりません。リンネの考え方についても、追い追い詳しく調べたいと思います。
19世紀 ― ダーウィンの自然選択説
世間一般では、「ダーウィン」=「進化論」、という単純な結びつきが広まっている気もしますが、進化(種が変化していくこと)の発想自体はダーウィン以前から既にありました。ダーウィンの功績は自然選択(自然淘汰)の考え方で進化のメカニズムを上手く説明できそうだ、と提案したところです。
『種の起原』(初版 1859)にて世に知られたというダーウィンの言説は、学者たちにすぐさま全面的に受け入れられたというわけではなく、いくつかの難点が指摘されていたようです。本書はそのあたりの解説に紙幅が割かれています。
なんといっても進化説は遠い過去に起きた出来事についての説明になりますから、決定的な証拠を提示するのが大変難しい言説です。過去に絶滅した生物種があり、現存の生物は生存競争の中を生き抜いてこられた種の末裔であるということは、化石の研究などから類推できそうです。それでも得られる情報はどうしても断片的です。このことは進化説の難点として現在でも変わりないでしょう。
さらに、「種間の不稔性を説明できていない」ことも難点とされたといいます。当時ダーウィンの自然選択説をサポートする現象として、品種改良の事例が挙げられていたようです。品種改良とはつまり、ある野生の生物の中から人間にとって都合の良い特徴を持った個体たちを選び、交配させて子孫を作らせ続けることで、元の野生種とは全く特徴の異なった家畜や農作物の品種を作り上げる方法です。このように特定の性質を持った個体たちが生き延び続けることで、もとの種とは異なる種が誕生していく。そして同様のことがきっと自然界でも起きたのだろうと類推できるわけです。しかし多くの場合、改良された品種は、もとの野生種との間で交配し、子孫を残すことが出来る(=稔性)と考えられました。他方、自然に見られる生物種は、異なる種どうしで交配して子孫を残すことは、普通ありません(=不稔性)。キリスト教的世界観が背景にあると、これはまるで、神が種を創造したときに種間の交配を禁じて創ったかのようにも思えます。つまり、種の起原を説明するにあたり、不稔性について何か特別な説明が必要に思えるのです。しかしダーウィンの言説では、不稔性が出来上がるメカニズムの説明には不十分である、というのが批判の論旨となっていたようです。
ダーウィンは、不稔性の成立については特別な説明は必要なく、自然選択によって、元は同一種だった複数種間の性質がかけ離れて行ったあるとき、偶然に交配可能性が失われるにすぎない、と考えたようですね。
もう一つ、当時取りざたされた自然選択説の難点は、特殊な器官の新生について説明できない、ということです。確かに眼球と視神経のような、非常に複雑な器官が、自然選択の原理だけで一から作られてくるというのは、にわかに信じがたいものがあります。信じるにしても、ちょっとした変異個体が、微妙な確率の違いで生き残ることの繰り返しだけでは、高度な器官が出来上がるまでとてつもない時間を要しそうです。
一方当時の物理学では、地球は誕生してから現代まで、5億年ほどしか経過していないという説が出ていて、この期間の自然選択では現生の生物の多様性を説明できないと考えられたようです。
現在は、地球は誕生から40億年経過しているといわれます。
しかしだからといって、じゃあ40億年もあれば足りそうですね、となるでしょうか…?
ダーウィン自身、地球が永い時間を経ていることを前提として自然選択説を展開しつつも、「極端に完成度が高くて複雑な器官」について、その発生起原は自然選択では説明しきれないだろうと考えていたようです。
他に、現代の視点から見たときの、ダーウィンの言説の欠点として、遺伝についての学説の未熟さが挙げられることもあるようです。
当時は遺伝子の概念も今ほど理解されておらず、遺伝の仕組みは「混合説」と呼ばれる考え方が主流だったようです。つまり、父と母の性質が何らかの機序で混ざり合い、融合して、子に引き継がれるという考え方です。現在の理解(≒粒子説)では、人間であれば通常は遺伝情報を2セット持っていて、その一方を子に受け渡すということになっています。子は両親から1セットずつの遺伝情報を受け取って2セット分を揃えるのであって、両親の性質同士を融合するということはありません。(細かく立ち入ると、組み換えとか諸々の作用で、融合っぽいことも起きてはいるのですが…)
混合説の立場だと、単純に両親の性質が混合して子の性質になると思われるので、あるとき生存に適した性質を備えた変異個体が現れても、通常の個体と交配したらその性質は2倍希釈されて子に伝わり、世代を繰り返すごとにどんどん希釈が進んで、その性質はやがて消え去ってしまいます。混合説では、生存に適した変異個体の出現率がかなり高くないと、自然選択説をサポートできないでしょう。
現代の理解であれば、変異の入った遺伝情報のセットは、その変異を温存したまま世代を経て継承され得ますし、混合説よりは自然選択説の妥当性を支持できそうです。
20世紀 ― 種概念の乱立と分類の実用性
いくつかの難点を指摘されつつも、自然選択による進化説が有力な仮説として広まると、分類学の考え方にも影響が出てきます。
種が不変であると思われていた時は、生物種たちはまったくデジタルで、種間の境界は明確に引くことができるものだったのだと思います。ある個体を標本として、その個体と同じ形質を持つ個体たちの集団がひとつの種だったでしょう。
しかしいまや、同一種と思われた個体群にもさまざまな変異があって、自然選択の原理がリアルタイムで働き続けており、じわじわと新種分化が進行することが分ってくると、果たして生物学者が【種】として区切ってきたものは何なのか分からなくなってきます。それは本当に実態のある不連続な個体集団なのか、はたまた連続的に流転する一過性の現象なのか?
マイヤー(1904-2005)やダーウィンは次のように言います。
民俗分類学の知見を踏まえると、生物を種として捉える感覚は、人間にとってかなり根底的なものだと思います。種概念の用法には、不変かどうかとか、どこを境界にするかとか、そんな明確な決まりは無いはずです。人間の言語は厳格な規則に従っていなくても通用するということは、言語にまつわる哲学を通して学んできました。定義される以前から通用している概念は、人によって使い方が様々にぶれていますから、改めて明確に定義しようとすると、どうしても異論が出てきてしまうでしょう。
そうは言っても、健全に学問を発展させていくには、学者間の概念の齟齬はなるべく取り除いておかないと不便です。そんなわけで、生物種概念の定義が提案され出すわけですが、これがなかなかの乱立具合のようです。
本書によれば、”生物学的”種の概念の誕生は、ポールトンによるそうです。
ここに至っては雄蕊の本数がどうとか、歯の形状がどうとかいう形態的な特徴は種の定義に入りこむ余地はありません。種の定義にとって重視されるのは、進化の系統です。
進化の系統とは、代々交配して子孫を残してきた、連綿と続く祖先ー子孫関係の系列です。「祖先を共有する」とは、ある個体どうしが同じ系統に由来するということでしょう。形態的特徴は、あくまで祖先を共有していたかどうかを推測するためのヒントとして使われることになります。
しかしただ「祖先を共有する」ことだけを種の定義としてしまっては、例えば生物は皆一つの共通祖先から進化して多様化してきたと考えられているのですから、生物みな兄弟、生物はすべて同一種ということになってしまいかねません。これは明らかに種概念として広すぎます。ここで、今後も引き続き交配して次世代を生み出し、系統を未来へつないでいける個体群をグルーピングする、「交配可能性」も重要になります。
交配可能性で括られた個体群が一つの種とみなされるなら、逆に交配できない個体群同士は異種と言うこともできそうです。
ダーウィンは不稔性を「種分化に伴い獲得した違いに付随したもの」と言い、種が分化した副次的な結果として交配が上手くいかなくなるのだと考えていましたが、逆転して、不稔になった段階を以て種分化が十分に成されたと考える向きもあり得るわけですね。
まだ生理的には交配関係を築くことができる個体同士でも、地理的な理由などにより通常接触することのない場合には、これらももう異種と判断してしまってよいとする種の定義もあるようです。
ところで、種概念の提案者に動物学者が多かったせいか分かりませんが、有名な種概念は大抵「交配」に注目するので、有性生殖を行わない生物には適用できません。ミドリムシを含む多くの微生物で、有性生殖は見つかってませんので、ここまで挙げてきた種概念は、生物普遍的に適用できるものではないのです。より幅広い定義としては次のようなものがあります。
この分類定義は、進化の系統との整合性を図りつつ、形態的な特徴の違いも重く見て、「進化的な役割」や「独自の傾向」といった、研究者に高い考察センスを要求する基準も伴った、総合的な種の定義のしかたですね。
他方、系統発生の推定結果に厳格に基づき、定められた規則に従って分類定義を決めていこうという、系統分類学(分岐分類学)という分類学も提唱されているようです。
なんだかあまり評判よくないですね、系統分類学。本書では系統分類学の内実についてあまり解説がありませんので(いずれ関連書籍を読むことになるでしょう…)、いまいち批判の論旨がつかみづらいですが、とにかく実用性に欠けることが致命的とされているようでした。このように本書終盤では、生物分類には実用性が重要である旨が強調されています。
おわりに
今回は分類学の本ということで、自分の探究にとって有用な情報が多かったです。本当は僕の興味の中心は「動物」や「植物」といった、かなり包括的で高次の分類概念ですが、種概念の議論も、生物分類の単位に関するものですから、是非押さえておきたいところでした。
本書はページ数も少な目で、コンパクトな内容でしたが、これを取っ掛かりに他の文献も読んでいきたいと思っています。特に民俗分類学にはこれまで注目しておらず、今後調べていくのが楽しみです。
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