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M016. 【科学論・本】科学の方法

「ミドリムシが動物か植物か考える」中で、読んだ本の内容やそこから学んだことについて書き留めるnoteの【14回目】です。

 前回、現時点での僕の考えをまとめた際に、「人間の都合に関わりない世界の真実に対する興味・関心」に答えるのは、科学的な探究であろうと書きました。しかしこれも本当にそう言い切ってしまってよいものか?
 そんな疑問を追究していくには、「科学とはどんなものか」という点について理解を深める必要があると感じます。ここに関連の深い学問としては、科学の在り方・考え方について考察する科学哲学や、これまで科学と呼ばれてきたものがどのように発展してきたのかを整理する歴史学(の中の科学史)、科学技術と社会の関わりについて考える科学社会学などがあるでしょう。今後はこのあたりの、科学について論じる文献ジャンルを総じて【科学論】と呼ぶことにして、note記事を書いていこうと思います。

 今回はちょっと古めで、昭和33年発行の、日本の物理学者が著した本から、科学とはどんなものかを学びました。

中谷宇吉郎・著『科学の方法』(1958年 岩波書店)

まず一般的なレビュー

 あまり古い本は言葉遣いや漢字の用法が現代と異なりすぎて読みづらいものですが、本書は随分読みやすかったです。一般向けに書かれた科学についての本であり、科学には限界があって、万能ではないよ、という論調となっていました。

自然科学というものは、自然のすべてを知っている、あるいは知るべき学問ではない。自然現象の中から、科学が取り扱い得る面だけを抜き出して、その面に当てはめるべき学問である。そういうことを知っておれば、いわゆる科学万能的な考え方に陥る心配はない。科学の内容をよく知らない人の方が、かえって科学の力を過大評価する傾向があるが、それは科学の限界がよくわかっていないからである。

出典:中谷宇吉郎・著『科学の方法』(1958年 岩波書店)

 著者は物理学者ですから、物理学のエピソードや理論の成り立ちについての説明を通して、科学の特徴を解説してくれます。物理学を修めた人にとってはあたりまえすぎて退屈かもしれません。ほとんど勉強したことが無い僕にとっては、平易な説明で物理現象について教えてもらえ、面白かったです。著者の考える「物質の科学」と「生命の科学」の違いについての論考も、大変興味深かったです。

科学は自然の実態を解き明かすか?

 まず僕が科学に対してもっている疑問への答えを見ていきましょう。科学的な探究は、人間の都合に関わりない世界の真実について、答えを教えてくれるのか?

よく誤解または早吞込をされることがあるので、まずその点からはいろう。それはよくいわれることであるが、科学が進歩するに従って、自然の実態がだんだん深いところまで分かってくるという言い方についてである。

出典:中谷宇吉郎・著『科学の方法』(1958年 岩波書店)

どうやら著者は、科学は隠された自然の実態をどんどん解き明かしていくような活動ではない、と考えているようです。そのことを示す事例として、万有引力の法則と相対性理論の対比や、電気に関する理論の変遷が、紹介されています。少し長くなりますが、電気の理論の変遷の部分を引用します。

たとえばここに一つの金属の球があって、それが電気をもっている。もう一つ金属の球があって、それも電気を持っている。この二つの金属の球同士の間に、吸引したり反撥したりする力が、遠隔作用で働くと考えるのである。事実二つの帯電体を近づけてみると、そういう力が働いている。それで金属の球は「電気をもっている」ことが分るのである。
――(中略)――
 ところがファラデーは、それはおかしい、何も仲立になるものがないのに、向うに力が伝わるのは変だ、何か媒介になるものがなくてはならないと考えた。ところがこの作用は、真空の中でも伝わるのであるから、媒介になるものがあるとすれば、それは真空自身ということになる。
――(中略)――
そこでファラデーは、電気があるというのは、そういう空間がゆがむことだと考えたのである。そうすると、電気の実態は、空間のゆがみであるということになる。そもそも帯電体というような言葉がおかしいので、ある物体の上に電気があるのではなくて、電気は、球と球との間の空間自身にあると、こういうふうに考えたのである。
――(中略)――
ところがその後のローレンツなどの電子論、いわゆる古典電子論がでてくると、電気の一番のもとは電子であるということになった。
――(中略)――
理論や実験を進めていくには、電子というごく小さい球があって、それが空間を走ったり、振動したりしているというふうに考えた方が便利なので、いつの間にか、電子という小さい粒を考えるようになった。
――(中略)――
 ところがその後、電子には波のような性質もあることが、実験的に知られ、非常に困ったことになった。一方たしかに粒子と見られる性質もあるので、けっきょく電子は球でもあり波でもある、ということになった。そういうようなものは、今までわれわれが知らなかったので、一時は大いにとまどったわけである。そしてその後現在の量子力学になると、電子の実態というものは、もはや存在しないような恰好になってしまった。電子は、今まで考えていたような、野球のボールを非常に小さくしたようなものでもなく、また波でもない。球の性質も出れば、また波の性質も出るような、一つの数式自身が電子であるということになった。もちろんその数式に従って、電子が活動するという意味であるが、実態そのものが分らない以上、その数式を電子といってもよいわけである。

出典:中谷宇吉郎・著『科学の方法』(1958年 岩波書店)

「ところが」が何度も出てきますね。電気についての説明がこんなにコロコロ変わっていったものとは知りませんでした。

 電気という一つの題目だけをみても、こういうふうに、考え方が始終変化している。しかも、それは相当本質的な変化であって、だんだんくわしくなったというようなものではない。こういう本質的な変化が、始終科学の考え方の中に出てくるというのは、ちょっと考えるとおかしいように思われる。自然の実態をだんだん深く掘り下げるということが、今まで胴体しか知らなかったのに、今度は手が分り、次に指まで分ったというようなことだったら、こういう本質的な変化は出てこないはずである。しかしそういう本質的な変化が、実際には始終あるのであって、それが科学の本質なのである。科学的な真理というような言葉があるために、その点が、とかく誤解され易いのである。

出典:中谷宇吉郎・著『科学の方法』(1958年 岩波書店)

どうも科学(物理学)の発展とは、隠された自然の実態が少しずつ発見されて真実の知識が積み上がっていくものというより、観測された現象を妥当に記述できる理論がその都度構築され、次第により広い現象に応用可能に成長していく、というものであるようです。

科学がいろいろと自然の実態を見ていくうちに、ある法則を新しく見つけたとする。その方が、従来の法則よりも、もっと広い範囲にわたって、現象の説明に役立ち、また新しい研究の諸口を与えてくれれば、それはすぐれた法則である。しかし従来のものが、にせものだと分って、今度はほんものが出てきたというのではない。もしそういうものだとすれば、今はほんものだと思っているものも、また次に新しい発見があれば、これもまたにせものだったということになる。ほんものがにせものに変るのはおかしい。これは、ほんものとかにせものとかの話ではないのである。自然現象は非常に複雑なもので、われわれはその実態を決して知ることができない。ただ、その中から、われわれが自分の生活――これは広い意味の生活で、知識を広めるという精神的な面まで入れた広い意味での生活であるが、その中に利用し得るような知識を抜き出していくのである。利用というと語弊があるが、これは実用という意味ではない。われわれの精神生活にマッチするような面を、自然の中から抜き出して、一つ一つ見ていく。その時、科学の場合ならば、科学の眼を通じて見ていくのである。それであっちから見たり、こっちから見たりすることが、実相なのである。

出典:中谷宇吉郎・著『科学の方法』(1958年 岩波書店)

 そういうわけで本書によれば、科学的な探究は、人間の都合に関わりない世界の真実について、答えを教えてくれるようなものとは、言えないようです。

非常に素朴な例をとれば、たとえば空を見るときに、空には形がないのであるが、四角な窓から見れば、四角に見える。丸い窓から見れば、空は丸く見える。こういう考え方は、カントの純粋理性批判の考え方から、一歩も出ていないわけであるが、少くも現在までの科学は、こういう考え方で発展してきたものである。それで現在の科学の思考形式以外の見方で自然を見れば、その見方で見た、また別の自然の実態というものが見えるはずである。それが現在の科学が捉えている自然の実態とひどくちがっていても、ちっともおかしくはないのである。それでわれわれは、現在のところ、自然科学によって自然の実態を探し求めるといってはいるが、ほんとうのところをいえば、そういう自然の実態を作り上げているのである
 こういうふうに考えてくると、自然界には、固定した実態が、どこかにかくされていて、それを人間が科学によって探していくうちに、うまくいったときには見つけることができる、というようなものでないことが分かる。科学が発見した物の実態もまた法則も、こういう意味では、人間と自然との共同作品である。

出典:中谷宇吉郎・著『科学の方法』(1958年 岩波書店)

 人間の都合に関わりない自然の実態というものも、在るだろうとは想定されますが、それそのものは不可知であって、科学とはあくまで人間の精神に基づいた自然についての妥当な解釈の一つであり、それはいわば人間と自然との共同作品である、といったところでしょうか。著者は、更に菌糸の例えでこのことを説明しています。

現在の科学は、なるほど今いったように、物質の究極のところまで、見きわめている面もある。しかしこれは、たとえてみると菌糸のような発達のしかたである。非常にうねうねしながら、無数に枝分かれして、ずいぶん広い範囲にわたって伸びていっている。それである方向には、非常に深く入っている。それからまた枝分かれも非常にたくさんあって、ありとあらゆる分野にまで、それぞれの知識が行きわたっている。しかしその間に、取り残された領域が、まだまだたくさんある。いわば線の形をとって進歩しているのであって、面積全体をおおう、すなわち自然界全体をおおうという形にはなっていないのである。

出典:中谷宇吉郎・著『科学の方法』(1958年 岩波書店)

科学は科学の見方に則って、自然に対して解釈の菌糸を伸ばしており、より深く広く発展しはするけども、科学では解釈されない自然の領域も、確かに在りそうだということみたいです。では、「科学の見方」とはどのようなものかというと、その重大な特徴は【再現可能性】であるといわれます。

科学の特徴は再現可能性

 本書では科学の最も重要な特徴として、「再現の可能な問題」が挙げられ、これを軸に様々な視点から科学の在り方が説明されています。

今日の科学の進歩は、いろいろな自然現象の中から、今日の科学に適した問題を抜き出して、それを解決していると見た方が妥当である。もっとくわしくいえば、現代の科学の方法が、その実態を調べるのに非常に有利であるもの、すなわち自然現象の中のそういう特殊な面が、科学によって開発されているのである。
 それはどういう面かというに、まず第一に、一番重大な点をあげれば、科学は再現の可能な問題、英語でリプロデューシブルといわれている問題が、その対象となっている。もう一度くり返して、やってみることができるという、そういう問題についてのみ、科学は成り立つものなのである。
 なぜ再現可能の問題だけしか、科学は取り扱い得ないかといえば、科学というものは、あることをいう場合に、それがほんとうか、ほんとうでないかということをいう学問である。それが美しいとか、善いとか悪いとかいうことは、決していわないし、またいうこともできないものである。
 それでは科学で、ほんとうであるというのは、どういうことかということを、まず考えてみる必要がある。ごく簡単な場合についていえば、いろいろな人が同じことを調べてみて、それがいつでも同じ結果になる場合には、それをほんとうというのである。

出典:中谷宇吉郎・著『科学の方法』(1958年 岩波書店)

いろいろな人が調べ、いつでも同じ結果になるような物事を「ほんとう」と認定し、理論を組み上げていくのが科学的な菌糸の伸ばし方なのですね。

 といっても、では「いろいろな人」ってどんな人が、何人くらい? 「いつ調べても」って、具体的にはいつ、何回くらい? 再現性を科学的な探究の要件に据えるには実用上の課題が多そうに思えますが、科学の実態はどのようになっているのでしょうか?

 現在のいろいろな自然科学の問題について、大勢の学者が、あらゆる方面で研究をしていて、いろいろな結果が発表されている。ああいうものを、一々もう一度同じ条件でくり返してみるということは、実際上は不可能なことである。また誰もそういうことはやっていない。ちゃんとした研究をして、こういうことをやったら、こういう結果が出たと論文に発表する。そういう論文を読んだ時、いかにもその通りだ、なるほど、自分もあの装置を用いて、同じことをやったならば、このとおりの結果が出るだろうと信用する。実際問題としては、それより仕方がないわけである。
――(中略)――
見たこともないものを、なぜ皆が信ずるかというと、そういうものから得た知識が、今までにわれわれがもっていたほかの知識に、矛盾なくうまくあてはまるからである。従って、もし自分もこれと同じ研究をしたならば、同じ結果が得られるであろうという確信がもてる。要するに、同じことをくり返せば、同じ結果が出るという確信がもてることが、再現可能という意味である。

出典:中谷宇吉郎・著『科学の方法』(1958年 岩波書店)

 理想的には再現がきちんと確かめられることが科学上の「ほんとう」であるとされつつも、実際問題として科学者たちは、それまでの知見に照らして再現可能である確信がもてさえすれば、一度の報告であってもとりあえずそれを信じるほかないということですね。

 再現可能性とその確信について更に詳しく説明するために、著者は「彗星」の例も出します。

 こういうことをいうと、科学ではただ一度しか起こらない現象でも、取り扱っているではないかといわれる方があるかもしれない。たとえば、ある種の彗星のようなものがそれである。彗星の中には、太陽系に一度まぎれ込んで来るだけで、そのまま飛び去って行くものがある。
――(中略)――
この場合は、一つの彗星を二度と観測できないのであるから、再現可能でないように思われるかもしれない。しかし彗星などは、もちろん立派に科学の対象となるべきものであって、これはほんとうは、再現可能の中にはいっている現象なのである。
――(中略)――
この彗星が太陽系に入ってきた時には、一度来ただけでも、正確にその軌道の計算ができる。そしてその彗星は、その計算どおりに動いていって、計算どおりに、太陽系から離れて行ってしまう。
――(中略)――
この場合、この彗星は永久に再び観測できないが、これは再現可能の問題である。というのは、これと全く同じ軌道をもったほかの彗星が、またやってきたならば、今度の場合と同じ軌道を通って、これもまた二度とは帰ってこない、という確信がもてる。すなわち同じことをくり返せば、二度と帰ってこないという、同じ結果が出ることを確信できる。
――(中略)――
こういうふうに、もし同じ軌道の彗星が今一度くれば、前と全く同じ経路をとるということを、確信できることが、すなわち広い意味での再現可能ということである。科学でいう再現可能という言葉は、こういう意味で使っているのである。

出典:中谷宇吉郎・著『科学の方法』(1958年 岩波書店)

 彗星のようにたった一度しか起きないかもしれない出来事でも、ある一定の条件がそろったなら同じことは起きるだろうと、確信できるからには、それは再現可能の範疇であり、科学の対象といえるとのこと。このあたり、言語哲学における必然性概念とも関わりある気がします。『名指しと必然性』の記事で、僕は次のようなことを書いていました。

不確実で真偽を確定しきれない発見であっても、科学的探究における毎回の発見の報告は、それが必然的な性質を発見したものと期待されて行われます。現在、ある自然種の本質と考えられているある性質が、将来には間違った理論に基づいたものだと判明するかもしれませんが、いまその性質が本質として認められているのなら(条件付きで不確実性を払拭するなら)、それは必然的性質として扱われるのです。

出典:みどりむしエレナのnote記事『M011. 【哲学・本】名指しと必然性

「必然的な性質を発見したものと期待」されるというのは、今回で言う、再現可能であると確信できる、ということと同じだったのかもしれません。

 ところで実際問題として一つ一つの研究結果を繰り返し確かめてみることはできないとのことでしたが、簡単な測定程度なら気軽に何度でも出来そうなものです。例えば1円玉の重さを量ってみるとか。ある朝1円玉を計量してみると0.999 gだったとします。ところが次の日再度計量してみたら、1.001 gだったとする。なんということだ!値が再現されない!1円玉の重さは科学で扱える事象では無いんだ!……とはならないですよね。少なくとも科学ではそういう見方をしないと思います。

非常に精密にはかってみると、その結果は一回一回の測定でみな価がちがって出る。しかし、それをそういうちがったものであるとみないで、ほんとうは同じ価に出るべきものであるが、いろいろなほかの原因があるために、その影響によって実際にはちがって出るのであると考える。これが科学の根本的な考え方である。この考え方の底には、第一章で話した再現可能の原則がはいっている。自然界にははっきりした法則があって、同じことを二度くり返せば、その法則に従って、同じ結果が出るはずのものである。もしこの再現可能なことが起らなかったら、それはほかの妨害によって、ちがってきたのである。こういう見方で自然現象を取扱うのが、自然科学の根本的な方法である。

出典:中谷宇吉郎・著『科学の方法』(1958年 岩波書店)

 例えば1円玉の重さであれば、ほんとうは何度量っても1.000 gと出るはずのところ、湿度だとか気圧だとか、何か不安定な事象が計量値に影響しているのだろうと考えたりする。というか、そう考えざるをえないわけですね。再現可能な問題しか科学では扱えないのだから、現象を科学的に扱うとはつまり、それが再現可能な問題であるはずだと考えて扱うということになる。
 そして、では湿度一定の場所で毎回計量することにしてみようと決めてみたりして、それできちんと同じ値が出るなら、「同じ1円玉を同じ湿度のもとで計量すると同じ値になる」という、再現可能と確信できる解釈に至ることができるでしょう。

実際のところ、自然界に起っている現象では、生命現象はもちろんのこと、物質間に起る簡単なように見える問題でも、厳密にいえば、同じことは決して二度とはくり返して起らない。そういう現象を、もし条件が全く一様ならば、同じことがくり返して起るはずであるという見方で、取り扱うのが、科学である。こういう見方であるから、もし同じ結果が出なかったら、原因はほかにあるのだろうとして、更に調べていくわけである。これがすなわち科学の見方である。もっとも別の見方もある。ほんとうの現象は、どんどん変化していって、二度と同じことはくり返されないという見方もできる。これは歴史の見方である。現象を歴史的に見るか、科学的に見るかという根本のちがいは、ここにあるように思われる。

出典:中谷宇吉郎・著『科学の方法』(1958年 岩波書店)

 実はミドリムシ問題の探究では、「歴史の見方」についても是非考察してみる必要があると思っています。生物の分類法として、各々の生物がどのような進化の道筋を辿ってきたかを基準に分類する方法があるのですが(現代生物学はこれが主流かも)、これは「歴史の見方」に相当するかもしれないと思うのです。地球でたった1度起きた自然淘汰の事件に基づいて生物を分類することは、果たして科学的なのか?それとも歴史学的なのか?どちらだったら、どうだというのか??時間をかけて整理していきたいところです。

 ところで1円玉の例は、再現可能なはずの1円玉の計量値(1.000 g)に対して、不安定な事象の影響(±0.001 g)が随分小さかったようなので、だからこそ、そこに再現可能性を見出すことも容易でした。もし不安定な事象の影響が随分大きく、またその事象が複雑で理解困難なものであれば、その測定値を科学的な解釈に落とし込むのは大変難しくなりそうです。

たとえば薄い塵紙のようなものを、目の高さから落としてみれば、すぐ分かることであるが、何回くり返してみても、紙が全く同じ落ち方をすることはない。紙はひらひらと舞って落ちてくるが、一回一回かならずその落ち方がちがう。これは誰でも経験で知っていることであるが、一回一回のちがい方は、時間が〇・一秒ちがうというような生易しい話ではなく、右の方へ落ちるかと思えば、次ぎには左の方へひらひらと舞っていくという始末である。同じ現象を二度起してみることはできないので、こういう問題は、科学が取り扱いにくい問題である。この場合は、重力のような単純な形の要素が大きく効かないで、空気の抵抗という複雑でかつ不安定なものが大きく効いている。空気の運動には、たいていの場合、渦が起きるが、これは非常に不安定なものである。こういう不安定な要素が大きく効くので、結果も非常にばらばらに出てくるのである。
 紙の落ち方は、同じ落ち方を二度とはしないが、ほんとうのところは、鉄の球でも二度と同じ落ち方はしないのである。原理的には、両方とも同じことであるが、鉄の球の場合は、再現可能な要素が強く、不安定で再現困難な要素の影響が、測定の精度よりも小さくなって、測られないというだけのことである。

出典:中谷宇吉郎・著『科学の方法』(1958年 岩波書店)

もっともこういう質問も出ることであろう。そういうことは、まだ必要がないから誰もやらないのであって、紙のひらりひらりを知らなければ、絶対に人間は生きていけないということになったら、間もなくそんな問題は解けるのではないか、という質問である。しかし政府がそれに何千億円の金をつぎ込み、何百人の学者を集めても、この問題は解けないと私は思っている。人工衛星をつくったり、富士山を掘り起こして駿河湾を埋め立てたりする仕事の困難さとは、性質のちがった困難さなのである。
――(中略)――
どれだけの高さのところならば、どれだけの速度を与えれば、人工衛星になるかということは、ニュートンの時代から分っていたことである。地球がりんごに及ぼす力も、月に及ぼす力も同じものであるということが分った時に、人工衛星の原理は確立されたのである。もちろんそれだけの超高速度を得ることも、また精密な時間調整を必要とする自動装置の製作も、非常に困難な仕事であって、それを為しとげたという点では、偉大な事業である。しかしそれは技術的な困難を征服したのであって、テレビ塔から落ちる紙の行方とは、困難さの質がちがうのである。
 火星へ行ける日がきても、テレビ塔の天辺から落ちる紙の行方を知ることはできないというところに、科学の偉大さと、その限界とがある。

出典:中谷宇吉郎・著『科学の方法』(1958年 岩波書店)

 複雑で不安定な影響が大きい現象は、科学的な取り扱いの難しい領域、菌糸の伸ばしにくい領域なのですね。本書で著者は「物質の科学」と「生命の科学」の違いについても論じていますが、このような複雑で不安定な要素の影響力の違いがその一つです。

 自然科学は非常にたくさんの部門に分れているが、これを二つに大きく分類すると、物理学や化学のような、いわゆる物質の科学と、動物学や植物学、あるいは医学のような生命現象を取扱う科学、すなわち生命の科学との二つに分類することができる。この分類は、かなり深い意味のある分類であって、物質の科学と、生命の科学とは、同じ自然科学の中でも、かなり姿のちがったものである
 そのうちで、物質の科学の方は、対象としているものが、比較的簡単であり、従ってその中にある法則も、また比較的簡単で、かつはっきりしている。そのために、物質の科学の方は、生命の科学にくらべて、非常に早く進歩した。生命現象は、これとちがって非常に複雑なものであり、しかも生物自身の持っている条件だけでは現象が決まらず、与えられた外界の条件によって、いちじるしくその作用がちがってくる。そういう非常に複雑なものであるから、この方は発達が遅れている。一般にはこういうふうにいわれていて、また事実それはそのとおりである。

出典:中谷宇吉郎・著『科学の方法』(1958年 岩波書店)

「物質の科学」と「生命の科学」の違いについては他にも、"分析と綜合"の適用され方の違いや、"問題の出され方"の違いといった見方が説明されていますが、今回の記事では触れません。

おわりに

 科学を人間と自然の共同作品とする見方、とても面白かったです。今回は物理学者の考える科学の在り方でしたが、ほかの領域の学者ではまた違った見方があったりするのでしょうか?積読の中にそんな本があることを期待します。

 そういえば本書の中で、科学が人間の都合の影響を大いに受けるものであることを示す事例として、「ミトゲン線の研究」なんていうものについてのエピソードが記されていました。僕はこの件についてはこれが初見でして、興味深かったので引いておきます。

 その一番大がかりのものは、約十年にわたって、世界中を騒がせた、ミトゲン線の研究である。これは生物線とも呼ばれ、生物の細胞が分裂するときに、一種の放射線を出し、この放射線が他の細胞にあたると、その細胞の分裂を促進する性質をもっている。はじめ玉葱の芽から、そういう放射線が出ることが「発見」され、その後いろいろな生命現象、たとえば酵母や動物の生きている血からもこの生物線が出るということになった。
 もしほんとうにそういうものがあったら、これは生物学をひっくり返すような大事件である。それで世界中にわたって、大勢の医学者や生物学者が、この問題をつつき、専門雑誌に出た論文の数だけでも、三百篇くらいはあったであろう。立派な数百頁の単行本も、二、三冊出ている。ひょっとすると、医学博士も数人できているかもしれない。
 全く新しい分野のことであるから、研究はどんどん進み、つぎつぎと新しい「事実」が見つかった。この線は、ガラスは通らないが、水晶なら通過する。それで水晶分光器で、スペクトルに分解することができる。生物の種類及び状態によって、その強度もまたスペクトルの配列もちがう。たとえば健康な人間の血と、癌にかかった人の血とは、ちがった生物線を出す、というような騒ぎにまでなった。
 この生物線の研究は、世界中の相当な学者が、百人近くもかかって、約十年にわたって、着々と進められ、立派な単行本になるくらいの知識が得られたので、一時はその実在を誰も疑わなかった時代もある。
――(中略)――
それでガイガー管を使った研究が、約十篇発表されたが、面白いことには、その半分が肯定的結果であり、半分が否定的結果に終った。それで生物学を書き換えるくらいの勢いであったこの大問題も、けっきょくは、正体不明のまま、いつの間にか、立ち消えになってしまった。この頃は、ミトゲン線のことなど、きいたこともない人も多いであろう。しかしこれは今から二十年くらい前の話であって、そう昔の話ではないのである。
 生物から出る放射線で、生物でしか検出できないものがあっても、別に現在の科学とは矛盾しない。ジェームスの言葉を借りれば、科学は何が存在するかはいい得るが、何が存在しないかはいい得ない学問であるからである。それで生物線のようなものが、存在しないとはいわないが、少くとも二十年前の生物線ブーム時代の研究には、人間的要素が、そうとう強く働いていたとはいっていいであろう。

出典:中谷宇吉郎・著『科学の方法』(1958年 岩波書店)

 当時の研究報告がどんなものだったのか、ちょっと興味ありますね…。

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