「ミドリムシが動物か植物か考える」中で、読んだ本の内容やそこから学んだことについて書き留めるnoteの【14回目】です。
前回、現時点での僕の考えをまとめた際に、「人間の都合に関わりない世界の真実に対する興味・関心」に答えるのは、科学的な探究であろうと書きました。しかしこれも本当にそう言い切ってしまってよいものか?
そんな疑問を追究していくには、「科学とはどんなものか」という点について理解を深める必要があると感じます。ここに関連の深い学問としては、科学の在り方・考え方について考察する科学哲学や、これまで科学と呼ばれてきたものがどのように発展してきたのかを整理する歴史学(の中の科学史)、科学技術と社会の関わりについて考える科学社会学などがあるでしょう。今後はこのあたりの、科学について論じる文献ジャンルを総じて【科学論】と呼ぶことにして、note記事を書いていこうと思います。
今回はちょっと古めで、昭和33年発行の、日本の物理学者が著した本から、科学とはどんなものかを学びました。
中谷宇吉郎・著『科学の方法』(1958年 岩波書店)
まず一般的なレビュー
あまり古い本は言葉遣いや漢字の用法が現代と異なりすぎて読みづらいものですが、本書は随分読みやすかったです。一般向けに書かれた科学についての本であり、科学には限界があって、万能ではないよ、という論調となっていました。
著者は物理学者ですから、物理学のエピソードや理論の成り立ちについての説明を通して、科学の特徴を解説してくれます。物理学を修めた人にとってはあたりまえすぎて退屈かもしれません。ほとんど勉強したことが無い僕にとっては、平易な説明で物理現象について教えてもらえ、面白かったです。著者の考える「物質の科学」と「生命の科学」の違いについての論考も、大変興味深かったです。
科学は自然の実態を解き明かすか?
まず僕が科学に対してもっている疑問への答えを見ていきましょう。科学的な探究は、人間の都合に関わりない世界の真実について、答えを教えてくれるのか?
どうやら著者は、科学は隠された自然の実態をどんどん解き明かしていくような活動ではない、と考えているようです。そのことを示す事例として、万有引力の法則と相対性理論の対比や、電気に関する理論の変遷が、紹介されています。少し長くなりますが、電気の理論の変遷の部分を引用します。
「ところが」が何度も出てきますね。電気についての説明がこんなにコロコロ変わっていったものとは知りませんでした。
どうも科学(物理学)の発展とは、隠された自然の実態が少しずつ発見されて真実の知識が積み上がっていくものというより、観測された現象を妥当に記述できる理論がその都度構築され、次第により広い現象に応用可能に成長していく、というものであるようです。
そういうわけで本書によれば、科学的な探究は、人間の都合に関わりない世界の真実について、答えを教えてくれるようなものとは、言えないようです。
人間の都合に関わりない自然の実態というものも、在るだろうとは想定されますが、それそのものは不可知であって、科学とはあくまで人間の精神に基づいた自然についての妥当な解釈の一つであり、それはいわば人間と自然との共同作品である、といったところでしょうか。著者は、更に菌糸の例えでこのことを説明しています。
科学は科学の見方に則って、自然に対して解釈の菌糸を伸ばしており、より深く広く発展しはするけども、科学では解釈されない自然の領域も、確かに在りそうだということみたいです。では、「科学の見方」とはどのようなものかというと、その重大な特徴は【再現可能性】であるといわれます。
科学の特徴は再現可能性
本書では科学の最も重要な特徴として、「再現の可能な問題」が挙げられ、これを軸に様々な視点から科学の在り方が説明されています。
いろいろな人が調べ、いつでも同じ結果になるような物事を「ほんとう」と認定し、理論を組み上げていくのが科学的な菌糸の伸ばし方なのですね。
といっても、では「いろいろな人」ってどんな人が、何人くらい? 「いつ調べても」って、具体的にはいつ、何回くらい? 再現性を科学的な探究の要件に据えるには実用上の課題が多そうに思えますが、科学の実態はどのようになっているのでしょうか?
理想的には再現がきちんと確かめられることが科学上の「ほんとう」であるとされつつも、実際問題として科学者たちは、それまでの知見に照らして再現可能である確信がもてさえすれば、一度の報告であってもとりあえずそれを信じるほかないということですね。
再現可能性とその確信について更に詳しく説明するために、著者は「彗星」の例も出します。
彗星のようにたった一度しか起きないかもしれない出来事でも、ある一定の条件がそろったなら同じことは起きるだろうと、確信できるからには、それは再現可能の範疇であり、科学の対象といえるとのこと。このあたり、言語哲学における必然性概念とも関わりある気がします。『名指しと必然性』の記事で、僕は次のようなことを書いていました。
「必然的な性質を発見したものと期待」されるというのは、今回で言う、再現可能であると確信できる、ということと同じだったのかもしれません。
ところで実際問題として一つ一つの研究結果を繰り返し確かめてみることはできないとのことでしたが、簡単な測定程度なら気軽に何度でも出来そうなものです。例えば1円玉の重さを量ってみるとか。ある朝1円玉を計量してみると0.999 gだったとします。ところが次の日再度計量してみたら、1.001 gだったとする。なんということだ!値が再現されない!1円玉の重さは科学で扱える事象では無いんだ!……とはならないですよね。少なくとも科学ではそういう見方をしないと思います。
例えば1円玉の重さであれば、ほんとうは何度量っても1.000 gと出るはずのところ、湿度だとか気圧だとか、何か不安定な事象が計量値に影響しているのだろうと考えたりする。というか、そう考えざるをえないわけですね。再現可能な問題しか科学では扱えないのだから、現象を科学的に扱うとはつまり、それが再現可能な問題であるはずだと考えて扱うということになる。
そして、では湿度一定の場所で毎回計量することにしてみようと決めてみたりして、それできちんと同じ値が出るなら、「同じ1円玉を同じ湿度のもとで計量すると同じ値になる」という、再現可能と確信できる解釈に至ることができるでしょう。
実はミドリムシ問題の探究では、「歴史の見方」についても是非考察してみる必要があると思っています。生物の分類法として、各々の生物がどのような進化の道筋を辿ってきたかを基準に分類する方法があるのですが(現代生物学はこれが主流かも)、これは「歴史の見方」に相当するかもしれないと思うのです。地球でたった1度起きた自然淘汰の事件に基づいて生物を分類することは、果たして科学的なのか?それとも歴史学的なのか?どちらだったら、どうだというのか??時間をかけて整理していきたいところです。
ところで1円玉の例は、再現可能なはずの1円玉の計量値(1.000 g)に対して、不安定な事象の影響(±0.001 g)が随分小さかったようなので、だからこそ、そこに再現可能性を見出すことも容易でした。もし不安定な事象の影響が随分大きく、またその事象が複雑で理解困難なものであれば、その測定値を科学的な解釈に落とし込むのは大変難しくなりそうです。
複雑で不安定な影響が大きい現象は、科学的な取り扱いの難しい領域、菌糸の伸ばしにくい領域なのですね。本書で著者は「物質の科学」と「生命の科学」の違いについても論じていますが、このような複雑で不安定な要素の影響力の違いがその一つです。
「物質の科学」と「生命の科学」の違いについては他にも、"分析と綜合"の適用され方の違いや、"問題の出され方"の違いといった見方が説明されていますが、今回の記事では触れません。
おわりに
科学を人間と自然の共同作品とする見方、とても面白かったです。今回は物理学者の考える科学の在り方でしたが、ほかの領域の学者ではまた違った見方があったりするのでしょうか?積読の中にそんな本があることを期待します。
そういえば本書の中で、科学が人間の都合の影響を大いに受けるものであることを示す事例として、「ミトゲン線の研究」なんていうものについてのエピソードが記されていました。僕はこの件についてはこれが初見でして、興味深かったので引いておきます。
当時の研究報告がどんなものだったのか、ちょっと興味ありますね…。
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