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秋の入り口

やっと夏から出られたような
朝の空気です。

ベランダのコキアの鉢も茎の方に少し赤みが刺してきました。

初夏から夏という大きな川を渡ってやっと初秋という岸に辿り着けそうな感じです。

岸に着いて地面を歩くのは楽しすぎてつい何でもかんでもやってしまいそうになりますが
ここは経験のある大人の考えを携えて、欲張らず少しづつやらなきゃなと思います。

夏は暑すぎて出かけない日も多く
クーラーで体も冷え
その癖ヨガもサボり
危うく夏鬱にかかる程、せっかくの夏休暇も外に出ず、夏も鬱、冬も鬱では人生もったいない。人生は有限なのだから。

連日小さな不快を一つ一つ取り除く私の改革はまだ続いていて
次から次へと出てくる
思ってるくせにやらなかった小さなあれこれにちゃんと一つづつ向き合って潰していくこと。
それにしても
実際向き合ってみるとどれもこれも
簡単には行かなくて
やっぱり厄介で
だからやんなかったんだよなー
と思う。
放っておいたから余計に取っ掛かりにくいのもあるけど。

小さなことなのに簡単ではない。
他の人はどうしてるんだろう。

自分の快•不快がわからない訳じゃないのに、無視してしまう癖。
ズボラなだけ?
いつから嫌なことはやらない人間になってしまったんだろう

我慢というか
使いづらい癖に使い良い物に変えないだとか
ここごちゃごちゃしてるなと思ってても整理しないとか
汚れてるなと思っても掃除しないとか
捨てなきゃなと思ってても置いてたりとか
折角持ってるのにほったらかして上手く使えてなかったり

要するに家の中の気が整っていないのは、一つ一つの細かなことをちゃんと解決しないでいるうちに
調和しなくなってるってことなんじゃないか。

物は十分に揃っていて
上手く使われていないから
道具の役割を果たしていない
ただ物が多い状態になると気が滞って流れが悪くなるので
人がイライラしやすくなる
怒りの感情、諦めや悲しさの感情、
疲れやすく、活力を向上させて新たな意欲が湧かない、眠れない、、、そんな状態に家がなってしまってたのかもな、って思う。
そして一番怖いのはそのことに気づいてさえいなかったことだ。
いつしか自分らしくない自分に徐々になっていってた。

何がきっかけかはわかんないけど
一つづつ、片っ端からやっていこうと決めてからは、色んなことに気づき始めた。
あそこもここもと。

-どこにいても私らしく楽しく暮らすこと-

それができない人ではないはずなのに、その気がなかった。

快適に暮らすには
嫌なこともやらなきゃならない
掃除とか 物を捨てたり 片付けたり 
それをやらないで、やりたいことだけやってると、何かうまく行かなくなる

嫌な人にもあいさつしたり
話をしたりすることも

行きたい場所でやりたいことをして楽しむには嫌な電車に乗らなきゃならないとか

ご飯食べたら洗い物しなきゃならないとかとおんなじで

両方セット

嫌なこともいいことも

そう考えると腑に落ちる。

今日は家の風呂掃除いつもはそこまでやんない
蛇口までピッカピカにして。

それで最後は自分の最適化。
今日はスピーカーの置き場所の最適化の実験。

煉瓦の上にBOSEを置いてスピーカーの後ろには木の空き箱、そしてその裏にはクッションを壁と箱で挟んで音の反響を吸収させる。

どうしてこうしようかと思ったかわかんない。でも確かに音は変わった。音の波が今までは真っ直ぐにだけ飛んでたけど
少し分散したし、ドンシャリに近い音になりました。ドンシャリとは、低音と高音の響きが良い状態。

しばらく音楽はこれで鳴らしてみます。
ほんとはビクターのウッドコーンとか欲しいけどねー。

BOSEは音が飽きるのよ〜。
やっぱり大きなスピーカーで小さく鳴らしたいなぁ。
いつかの夢です。












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