「東日本大震災から10年」に思うこと
10年前の今日、某作家さんの原稿をいただいて会社で小説誌の入稿作業を進めているときにあの地震が起きた。
最初、いつもと違う揺れに「これはヤバい」と私は思わず声が出たのだけれど、編集部の周囲の人たちはあまり気にせずに仕事をしていた。私の肌感覚をうまく説明できない。この温度差は何なのか。阪神・淡路大震災を体験している私と、そうでない人たちとの「溝」みたいなものをこのとき初めて感じた。当時、大きな地震を体験している人はほかにいなかったと思う。
そんなに時間が経たずにして会社のビルは大きな横揺れを起こす。窓に近い場所では落下しているものもあった。頻繁に揺れが続く。そのときはさすがに誰もが異常を感じていた。
揺れの状況からみて、外に出ると落下物に当たる危険性が大きい。建物内にいるほうが安全だと判断した。原発のことはまだこのときは分かっていなかった。夕方、窓から外を見ると狭い道に、今でいう「密」の状態で数え切れない人たちが歩いていた。
電車はまったく動いていない。小さな揺れは続いているが、それでも電気はついていて、水道も問題はない。夜に仕事を終えた私は会社に泊まる選択をした。夜道を歩き慣れないところを歩くのは非常に危険だからだ。昼間とは景色が違う。さらに、ひとたび大きな余震が起きれば、ひびが入った状態で建っていた建物などが倒壊する恐れがある。幸い、翌日は土曜日で打ち合わせなどの予定もなかった。朝になって明るくなるまで動かない方が危険性は低い。
今、グーグルマップで確認すると、会社から当時住んでいた家までは歩いて2時間5分。あの地震下では少なくとも4時間ほどはかかったのではないだろうか。
ぼんやりした記憶では、あの日は午後11時すぎくらいに地下鉄のどこかの路線が動いたかと思う。同僚の一人はその電車に乗って帰ると会社を出ていった。ニュースを見る限り、東京に関しては動いている電車もかなり途中で止まったり、渋谷駅すぐそばのバス停留所ではバスを待つ人で溢れかえった様子が映し出されていたりした。
翌朝の土曜日、いつも乗っている路線の地下鉄が朝に運行再開したことがわかり、電車に乗って帰宅した。家に着くと、本棚から本が落ちていたがそれ以外に目立った被害はなかった。本棚はベッドから離れた場所で逃げ道を塞がない位置にある。高さもそれほど高くはない。阪神・淡路大震災のとき、天井ギリギリの高さにしていた本棚がベッドの上に倒れていたのを見て、可能な限り安全そうな場所に置くようにした(阪神・淡路大震災のときは縦揺れがドーンと来て、着の身着のまま外に飛び出した。余震がしばらく落ち着くまで家の中には入らなかった)。
阪神・淡路大震災で感じた疎外感
東北の大変な状況に比べるとまったく大したことではない。それでも書き留めようと思ったのは、記録は大切だと思うからだ。阪神・淡路大震災のときも自分が被災した状況は亡くなった方やとてつもなく大変な状況の方に比べると全く話にならないと思い、震災から10年が経つくらいまでは口に出すことはなかった(当時は神戸では誰もが何かしら体験しているので分かり合えるという感覚もあった)。ただ、記憶は薄れる。体験したときの思いは黙ったままでは消えていってしまう。あの日から26年経った今、どんな些細な事柄でも残すことに意義があると強く思うようになった。
10年経とうが、20年経とうが、そのときに感じた思いは形を変えながらも決してなくなることはない。
私の場合、阪神・淡路大震災のときは幸いにも電気がすぐに復旧し、状況がわかったのが何より有難かった。携帯電話はごく一部の人しか所有しておらず、普及していなかったので情報を得ることがなかなか難しい時代だった。ガスと水道の復旧はかなり時間を要したが、まだ何とかなった。
あれは地震から2カ月くらい経った3月中旬だったか、余震が続く中、代替バスに乗り換えて大阪に向かった。梅田の阪急百貨店付近。きらきらと輝く照明の下、仕事が終わって駅に向かう会社員らしき女性たちがこちらに近づいてくる。彼女たちは素敵なバッグを手にして、ワンピースなどお洒落な雰囲気が漂っていた。メークも決まっていて、ちょっとしたアクセサリーはもちろん、高いヒールで颯爽としていた。一方、自分は、リュックを背負ったスニーカー姿で、ノーメイク。いつ何が起こってもいいように動きやすい格好で、周囲から明らかに浮いていた。川を一つ越えると、そこにはいつもの「日常」が流れていて、地震とは無縁の世界が広がっていた。
駅前の売店にあった雑誌や新聞にふと目に入る。「もし東京で地震が起きたら」「東京直下地震想定対策」といった文字が躍っていた。すでに阪神・淡路大震災のことは過去として捉えられているのか、という疎外感をあのとき、強く感じたのを覚えている。このあと、4月にオウム真理教のサリン事件が起こり、一気に東京中心のマスコミからは震災報道が消えてなくなっていった。「忘れ去られる」ことほど、その虚しさは計り知れない。
東日本大震災も10年が経ち、当事者とそうでない人たちとの心理的な距離感は広がっていくだろう。決して10年は節目というわけではない。言い続けなければ「歴史」の中に埋もれていってしまう。死ぬまで終わりはないし、答えも見つからないと思う。私自身、大したことではないとしても刻んでいきたい。