琥珀の海に抱かれたい ①
推しが結婚した。
夏の始まりの夜、芸能ニュースで知った。手のひらの画面で、結婚報告とともに、渋いスーツを纏っている推しの画像が映し出されていた。隣には、推しと入籍した、奥様のウエディングドレス姿があった。真っ白でシンプルなドレス姿が、より奥様を美しく魅せていた。
推しは、いつかは結婚する。そんなこと、推しを推し始めていた時からわかっていたことだ。推しに彼女がいること、付き合って長いこと、私は推しの動画を通して知っていた。お酒を飲むと彼女に会いたくなる、と、昔、動画内で話していた。私は、普段ほとんどお酒を飲まないからイマイチピンとこなかった。いつかは結婚する。誰かと家庭を築く。そんなこと、わかっていたのだ。
推しを推し始めてから、3年が経過しようとしている。2021年の夏、何となく見始めた動画が面白く、そこから推しに急激にハマり出し、今に至る。推しは、かっこよくて、おしゃれで、いじられキャラで、天然で、謎解きとか難しいクイズが苦手で、モノマネと歌が上手くて、歳を重ねるごとに、所ジョージのような、人生を謳歌している、男らしい渋さが増してきている。推しのことなら、いくら時間があっても語り切るのは難しい。これは、私に限らず、推しがいる全人類の共通事項だろうけど。
推しの幸せな報告を自分のことのように喜ぶより、心にぷす、と穴が空いた感じがするのはなぜだろう。パンパンに空気が入ったビニール袋が萎んでいくようだ。推しは結婚するからといって、活動を中止するわけではないのに。まさか、私が推しと結婚できるとは思ってないし。ひとり狭いアパートで、床に寝転がりながら、推しと奥様の幸せそうな写真をまじまじと見つめる。好きな人と、長い間一緒にいて、結婚できるなんて、こんな幸せはないよな、と思う。
この夜は、ZINEをネットプリントに入稿する作業に追われていた。何が大変だったって、データをPDFにして送信するのだが、PDF化すると、画像が思うように反映されないのだ。初心者の私は苦戦しながら、姉や父にアドバイスをもらい、なんとか納得のいく出来で入稿することができた。夜9時頃だった。正直、「やり切ったぞ」という達成感よりも、疲弊感の方が強かった。
夜ってのが、くるんだよ、心に。これが朝8時とからなら、また違う感じ方だったのかもしれない。健やかな気持ちで祝福できたのかもしれない。ただ、夜ってだけで、誰かの声を聞きたくなる。こういう時、早く寝たらいいのに、思わず電話をかけてしまう。
まず、高校時代からの友人・Rちゃんに電話をかけてみる。「通話中のため応答することができません」という表示が出た。日曜の夜だ。当たり前である。日曜日の夜は、誰かと電話をして過ごすものだ。恐らく、彼氏と通話中だったのだろう。
ここでやめておけばよかったのに、次に元彼へ電話をかけてしまう。「通話中のため応答することができません」お前さんもかいな。友人か、母親と通話中なのかもしれない。いいなあ、みんな、電話する人がいて、と悲観的になってしまう。
ここで諦めるべきだった。しかし、夜の寂しさに負けてしまった私は、今は遠くに住んでいる、過去に好きだった人に電話をかけるのだった。バカめ。ここで電話に出られなかったら、落ち込むくせに。彼は、通話中ではなかったが繋がることもなかった。寝ているか、お風呂に入っているか。色んな可能性がよぎるが、今電話できる人がいないという事実だけが残る。
バカな私はひとりでうぅうぅ、と情けない姿で涙を流す。だから言ったのだ、早く寝ろと。ここまで来ると、自分が何に泣いているかわからなくなる。みんな、それそれの生活があって、自分にも自分なりの生活スタイルがあって、ひとりでいるのが好きなくせに、時々みんなには特別な存在がいるように見えてしまう。ベッドに寝転がり、天井を見上げる。引越しの際、通販で購入した照明は、4灯タイプで、エジソンの時代からあるような豆電球の形をしている。ひとり暮らしをするからには、可能な限りインテリアにこだわりたいという思いから、照明も吟味して決めたものだ。寝転がっても、私の部屋かわいいなあと幸せな気分になれるようにしたかった。今はどうだ。テンションが上がるどころの話ではない。慣れって怖い。
結婚しない、と友人たちも前で公言してきた。結婚はできないかもしれない。しかし、できるならしたい。今すぐでなくても、いつかは。中学校の卒業文集で、「将来の夢は、文章を書く仕事に就くことと、お嫁さんになること」って書いたことを思い出す。文章を書く仕事には就けていないが、noteを更新し、自分を表現できる場所を見つけることはできた。私も、お嫁さんにだって、なりたいのだ。ただ、こんな日は、そんな夢がますます遠のくように感じる。結婚が、逆立ちで世界一周くらい難しいように思う。
ベッドの上でゴロゴロしたり、思い出したようにメソメソしたり、上から落ちてくる、数字のブロックを重ねて点数を稼ぐという頭を使うんだか使わないんだかわからないゲームをして1時間ほど時間が過ぎていく。そうすると、iphoneが震え出す。Rちゃんから、折り返し電話が来たのだ。
私は、整理できていない今の感情を、ありのままRちゃんに話した。推しが結婚した。なんだか寂しい。そして色んな人に電話したが、誰とも繋がらなかった。Rちゃんは哀れな私を否定せずにうんうんと聞いてくれた。
悲しさを拗らせてしまうことがある。きっと、この時がそうだ。悲しさを育てるのが得意な私は、夜を味方にして、悲劇のヒロインを演じてしまった。四半世紀も生きていればわかるのだ、都合よく助けてくれるイケメンが現れてくれることはないって。しかし、話を聞いてくれる人はいる。Rちゃんと話すと、今自分がそんなに情けない人間ではないように思えてくる、ぷす、と心に空いた穴が自然治癒される感じ。Rちゃんは、近いうちに盛岡帰るから、みどりちゃんの仕事終わりにでも会おう、と提案してくれた。そして、ZINEの入稿お疲れ様、と言ってくれた。そうだ、ダブルでおめでたいのだ。推しは結婚し、私はZINEを入稿させた。まだ完成形は手元にないが、いつか自分が書いた文章を形にしたい、本にしたいという夢が叶う第一歩なのだ。実は、ZINEは今年の冬にも1点作ったのだ。しかし、初めてということもあり、文字の大きさ、文章のクオリティ諸々、納得がいかないところばかりだった。だから、6月にZINEのイベントがあるとわかり、次はもっといい作品を作るぞ、と意気込み、調子に乗って2作品作ることに決めた。しかし、私はスケジュール管理が下手なため、結局ギリギリに入稿する羽目になった。最後の最後に焦ったのは、心臓に悪いが、あとは印刷されたZINEが届くのを待つのみ。いいじゃん、優雅に待ってたらいいじゃないか。
Rちゃんは、結局、深夜1時まで電話に付き合ってくれた。電話を切ったあと、心のモヤモヤが少し晴れた気がした。それと同時に、何か、自分をさらに元気づけることをしたいとぼんやり考えていた。美味しいものが食べたい。普段家では食べることができない、自分の好きな食べ物。考えた末、あいつが浮かんでいた。
冷たい、琥珀色のスープに、彼でしか体験できない、ツルッと喉越しの良い麺。あいつを食べたい。あいつに会いたい。
明日の仕事終わり、あいつを食べよう。そしたら、仕事も頑張れる。推しの幸せを、祝福できる。
そう思いついた途端、一気に睡魔が襲ってきた。