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欠片

祖母が亡くなった。

初めての出来事だったその始まりは、ある朝。
かねてより末期の胃癌を患っていた祖母が
危篤状態だという一報が家族に届き、
全ての予定をはねのけて私たちは祖父母の住む地域へ赴いた。
なにせ祖母は、残り少ないその余命で家族と一緒にいるため、
延命治療を拒んだのだ。
車で行くこと数時間。
着いた先は祖母が入院している病院だった。
痩せこけ、生気を失った顔。
歪に膨れた身体の節々に不規則で荒い吐息。
もはや言葉すら交わせぬ状態だったが、
時折見せる笑顔にはかつての面影が残っている。
早くも泣きじゃくる母に、どんよりとした空気を纏う父。
六歳にも満たない私の妹は事の大きさに気づいていない。
そんな中私は平静を保ち続けていた。
しんみりした雰囲気は明るかった祖母には似合わないと思った。
父が祖母へ声をかけていた。手を握ってひたすらに

「ありがとう、ありがとう、」

と声をかけ続けていた。
父につられて握った祖母の手が異様に太く、痛々しかった。
だがそこにあった温もりはかつてのそれと変わらなかった。
私は祖母へ言った。

「おばあちゃんの言ってくれた
『お前は私の宝物だ』『元気でいろよ』
って言葉のおかげでここまで成長できたと思ってる。ありがとう。」

それが意識の曖昧な祖母に伝わっていたかは今でもわからない。
神妙な雰囲気のまま静寂が流れた後、父は音楽を流した。
それは、祖母が最近好きになって父や祖父の前でやたらと歌っていた、BIGINだった。
ゆったり流れ出す優しい伴奏。
私は泣くのをこらえていた。
今思えば当時は死ぬと決まってもなかったんだから泣く必要もなかった。
耳は正常に認識したのであろう、曲を聞いた祖母は歌えこそしなかったが、嬉々として腕を振るっていた。
それに合わせるように、私も歌った。
病院の迷惑にならない範囲であったが。
それでも穏やかで優しい時間が流れた。
遅れて神戸から叔母さんが着いた。
すでに涙腺が半壊した彼女は、祖母へ向けて手を振る。
しかし、先程と比べて反応が鈍い。
祖母は疲れたのであろうと思った一行は、
一旦祖父母の住まう家へ待機することにした。
有事の際は一報くれと、父は祖父に言った。
私はもうすぐ死ぬであろうことを祖母に諭したくなかった。だから言った。いつも祖父母の家から実家へ帰る時のように。
「また来るわ」とただ一言。
心のどこかで、
またこの人は元気で戻ってくるんだろうなと思っていたのかもしれない。
それから待つこと数時間。
やっと祖父が家に帰って来た。あるものを携えながら。

それは、祖母の訃報だった。

やっぱり死んだか、と思った。
あんなに息も絶え絶えで保つわけがなかった。
それに私は道中で覚悟してきた、これを最後に今日祖母は死ぬんだと。
それにしてもあっけない終わりであった。
軽快で楽天家、
元々細身だったその体とは裏腹に豪快な気質をもったあの祖母が、
これ程ぱたりと終わってしまうのだと、少し拍子抜けした。
程なくして遺体が運ばれた。
私は遅れて一同がいる遺体のある部屋へと足を運び、
絶句した。
おぞましい顔つきとなり、異様なまでに黄色く枯れ果てた表面。
骸骨の輪郭が見え隠れした顔面のそれには、
かつての祖母の生き生きとした印象が微塵も残されていなかった。
皆が何かのドラマのように遺体へ触れる。
冷たくなったらしい肌を憂いながら触れる。
その最中、私は遺体に触れなかった。
心底恐れおののいていた。
もしかしたらこれが死への根源的恐怖なのかもしれないと思った。
現場は壮絶な空気だった。
凍りつき、永久に溶けないのではなかろうかというほどの
悲しみに包まれていた。
母や叔母さんは泣き崩れ、いつもは饒舌な父も今ばかりは寡黙である。
対して祖父はかなり平静で軽快だ。
だが、祖母を一人看取った人間。相当な覚悟をしたのだろう。
ひょっとしたら、
私達に祖母がもうじき死ぬという連絡を寄越さなかったのも
そういうことなのかもしれない。
ふと目をやると、無機質な仏教具とともに何本か線香が上げられていた。
いつもここへ訪れては上げていた曾祖母への線香。
よもやそれを祖母へ向ける日が来るとは思わなかった。
私は初めて祖母の死を実感した。
線香を上げて思い出した。
祖母は紛れもない善人だった。
人間特有の愚かさや醜さを持ち合わせていなかった。
純粋な人間だった。
でもそれは、戦争で多大な苦痛を伴ってのものだとも思った。
私が落ち込む一同にそう云うと、ぴったりの言葉だと父が大きく頷く。
父も同じように語りだす。
彼が遺体や病室の後始末をしに行った時、とある一冊の本が目に入った。
表紙に書かれていたのは、
『よりよい人生の過ごし方』だった。
あれだけの死の淵に瀕してもなお祖母は生きようと必死だったのだ。
それが無情にもあっけなく終わってしまった。
ひとしきり語り終えて、突然父は泣いた。
驚いた。少なくとも、私の眼前で泣くのはあれが初めてだったのだから。
事の重大さは十分認知していたつもりだったが、
改めて思い知らされた気分だった。
それから一同なりの一足早い通夜が始まった。
私たちは夜明けまで祖母を讃えては、
あれだけ底無しに元気だった祖母を殺めるほどに病気は恐ろしいのだと、
祖母の残した教訓を改めて噛み締めた。

翌日未明。
皆が祖母について語り終え、
明日から始まるであろう事務処理に備えて床についた。
だが私はまだ寝るわけにはいかなかった。

祖母の遺体に、触れなきゃいけない気がした。

頬を触る。冷気が表皮を刺した。
生前の温もりはもうそこには残っていなかった。
額を触っても同じ。
病室で握った手をもう一度握ると、遺体冷却用のドライアイスのせいか、
いっそう凍てついたように感じる。
当然、先程生きていた時は微かに生気もあったし、
こんなに重たくもなかった。
頭はごろごろと異様に軽く、それでいてやはり冷たい。
私は、そこにあるのは「祖母だったもの」であり、
もう祖母は骸になり果ててしまったのだと認識した。
それに気づいた途端、涙が止まらなかった。
ぽろぽろと大粒の水滴が溢れていった。
一心に私は頭を撫で続けた。
優しく、ただ撫でていた。
かつて祖母が撫でてくれた時はもっと力強く強引だったなとか思いながら、ただそれを続けた。ある種の慣性だったかもしれない。
低身長で幼い私を連れ、祖母は大きな手で私を撫でてくれた。
今ではその祖母は亡骸となって目の前に横たわり、
大きくなった私が祖母を撫でるその時間の経過に想いを馳せると、
余計に涙が止まらなかった。
そんな時間ももう長くない、
数日後には遺体すら消えてしまうのだと思い出した。
少しだけ満足した私は撫でるのを止めて、床についた。
祖母の訃報が入った翌日午前6時の事だった。

そこからは、
癒えぬ悲しみを埋め尽くすかのような事務処理に追われる日々だった。
遺体は少しでも生前に近づくようにメイクアップされる事となった。
痩せこけた顔を少しでも元に戻すため綿を口内に詰めるのだが、
強引に押し込んだりされて、
その作業行程に祖母を人としてではなく
ものとして扱われる幾ばくかの侘しさを感じざるを得なかった。
一方の私たちは祖母へ最後の手紙を贈ろうという計画であった。
聞けばもう数日で祖母は棺に入れられ、その末に焼却されるのだという。
祖母とは何十回目かの手紙かもう枚挙に暇がないが、
これが正真正銘の最後の手紙である。
私は考え抜いて贈ろうと心に決めていた。
とはいっても、
私はもともとこういう「天国にとどけ!」系の気休めに
あまり慰められる質ではない。
届かないと思いつつも、いや、死んだ後のことは分からないし、
書いてみるのもいいなと思った。
半日かけて、下書きから清書に仕上げることまる4枚。
最後の方は
もうこれで勘弁して、とさえ思うほどに本気で身内の死へと向き合った。
私の中で考えは固まった。
死んだものはもう二度と戻らないし、
過去の後悔を無くそうとしても上げだしたらきりがない。
何よりこの世にあるものは全て滅ぶ運命なのだから
姿形に執着してもしょうがない。
だから祖母の言葉と記憶こそがこの世で唯一残された「欠片」なのだ。
我々生者の責務はその遺志を忘れず果たすことだと、そう心から思った。
私は前を向いて生きると、心配をかけぬよう天国の祖母と約束した。

それから2日ほど経って、今日は出棺日である。
改めて遺体をメイクアップしていた。
だが遺体などすぐ無くなると悟った私は、
ただそれを「祖母だったもの」として受け止め、
出棺するにはいい出来映えだとか、そんな冷めた受け答えをした。
熱をあげたってしょうがないのだから。
再度祖母を撫でる。
やはり涙は込み上げる。
その度に、姿形に執着しても苦しみしか生まないと言い聞かせた。
しかし、もうすぐ撫でることも眺めることも出来ないのかと思うと、
どことなく寂しさを感じざるを得なかった。
気づけば祖父が「ありがとうな」と、私をわしわしと撫でていた。
改めて思った。死んでからでは何もかも遅い。
悔やむのも愛でるのも何もかも。
生きているうちに想いを尽くすことが
こんな悲劇を生まない方法なのだろう。
今さら色んな後悔を考えてもしょうがない。
出棺に向かおう。
そう奮い立った矢先、
メイクアップのスタッフは少し処置をすると言って
なぜかその部屋の障子を締め切った。
後で聞いたが、死体の腐敗で足がボロボロだったのだという。
いくら冷凍しているとはいえ、
長引けばさらに生前の活発さから離れた風貌になるのだろう。
祖母のためにも手早く遺体を焼却することがベストなのだ。
衰弱していた祖母が頑なに私たちと会おうとしなかったのは、
こういう姿を見せたくなかったからかもしれない。
徐々に未練が途切れていく私たち。
半分途切れていると言い聞かせているのかもしれない。
だが、確実に死は受け入れ始めている。
一方で、今日来たばかりの従兄弟は
あまりのショックに泣きじゃくってばかりだった。
当然だ。私は数日かけて慣れたと言うのに、
今日来てもう出棺してしまうなどどれほど寂しいだろう。
その日は葬儀の前日。通夜であった。
通夜でも従兄弟は時折感傷に浸ったままだった。
私も従兄弟と二人きりになった際少し盛り上げようとしたが、
やはり一旦仮眠部屋で冷静になると思い出してしまうようだ。
祭壇へと向かうと、そこには棺に入った祖母と、遺影に装飾の数々。
ついに明日遺体も消え、全て終わるんだという実感が背後に迫る。
その晩、叔母さんがひとりそこで佇んでいた。
冬の冷え込んだ祭場の中、たったひとり祭壇と遺影を見つめていた。
それに私はえも言われぬ哀愁を覚えた。
もうすぐ戻るから、と一言呟いた彼女を一瞥した後に
私は部屋に戻って眠りについた。

翌朝、揺さぶられたのを感じた私は目を開く。
眼前に父がしゃがみこんでいた。
深夜1時に寝落ちしてそのまま起床したようだ。時刻は朝6時。
今日が、「その日」である。
葬儀を執り行い、火葬を決行する日。
喪服に着替えた私たちは式の開始時間まで待ちくたびれていた。
父と前夜に話していた。
もう遺体も見るだけ見た、思い残すこともない。
後はセレモニーである明日を終えて全てに終止符を打とうと。

「形あるものは全て滅びる。それに執着するんじゃなくて、
おばあちゃんの遺した言葉とか記憶とかを大事にしていった方が…
おばあちゃんのためだと思うんだよな。」

私は父にそう言葉を返した。そんなことを言い合ったのだ。
もう未練の情も寂寥の念もない。
ただ、やるだけである。
式の進行は半分も分からなかったが、
お坊さんが念仏を唱える辺りでもうダメだった。
あいにくと疲れていた私は幾度も寝かけた。
確実に後列にいた人にはバレてる。
同列だった人もバレてないか怪しい。
だが、お坊さんが唱える言葉の中に祖母の功徳を唱えるものがあって、
その時には不思議と目は覚めていた。
散歩好きだったとか、よくボランティアに参加してたとか、
裁縫技術が常人離れしてたとか。
確かにそんな人だったなぁと思い出しながら静かにそれを傾聴していた。
程なくして喪主である父が挨拶に取り掛かった。
ここに至るまでの経緯は昨晩通夜で話したばかりだ。
もう形式的な挨拶だけで十分だった。
その中で祖母の息子であった彼なりの想いを吐露する一節に遭遇した。
その時、その言葉が私が昨晩話した言葉の引用であることに気づいた。

「もうすぐで形ある母に会うことは…出来なくなってしまいますが、残された遺志を継いで行くことが遺族の責務だと思ってるので、それをやり抜いていくつもりです。」

私は彼の視線に気づいた。
私も腹を決めた。言い出しっぺの私がその時にグズる訳にはいかない。
遺志を継ぐ思いで前を向いて火葬に踏み切ろうと決意した。
そうして一連の式典が終わり、最後に棺に花を添える儀式に移行した。
献花の際にはその場にいる誰もが泣きじゃくった。
無論、父も例外ではなかった。
この数日ずっと気丈だったあの祖父でさえも。
私だけは泣きもせずただ平常心で、だが少しだけ祈った。
「さよなら」は言わず、
「また会おう」と祈った。
そうして私たちは火葬場に向かった。

着いたのは、一面が無機質なコンクリートで囲まれた施設。
感動的な別れをするにはあまりに無機的すぎた。
それでもここで、最後のお別れを告げるのだ。
棺を運ぶ役目に任命された私はそれを台車へと運んだ。
台車に乗せられたそれは、通路を歩き、
ひとつのある鉄製の入り口の前で止まった。
のっそり開いたドア。
おそらくあれは焼却炉への入り口なのだろう。
それは棺を、ゆっくりと呑み込んでいった。
呑み込まれていく祖母を見届けて、私たちは手を合わせた。

瞬間、鈍い鉄の音がドアの閉鎖を告げる。

もう祖母が焼き付くされて骨だけが残ることを悟った私たちは
祭場にもどり、昼食をとるのだった。
あれだけ元気だった祖母はあっけなく死に、
あっさりとその遺体も姿を消して私たちに記憶だけを残した。
けどこれで祖母の姿形に別れを告げて、
残った記憶を大事に前向きに生きると踏ん切りも着いた。
良い終わり方であった。
外を見上げると強烈に差し込む日差し。快晴の青天井だった。
それは、年齢と裏腹にいつまでも明るく活発で、
微塵も醜さのない純粋な祖母のようだった。
程なくしてもう一度無機質なコンクリート施設へと赴いた。
薄暗く、広いとも狭いとも言えないような一室の中、
その真ん中が仄かに照らされている。
祖母の遺骨だった。
理科室で見るような綺麗な原型はとどめていなかった。
どれがどの部位なのかも見分けがつかないほどに凄惨だった。
亡骸とはいえもともとの姿形を知っているだけに
筆舌尽くしがたい気分に襲われた。
私たちはそれを箸でつまみ上げ、納骨した。
骨は極めてスカスカで発泡スチロールのような感触に似ており、
中には薬も残留していて、闘病の跡が見受けられた。
それをひとつひとつつまみ上げていくのに、またも侘しさを感じた。
ボロボロで時折崩れ落ちるこれが祖母だったのか、
と思いながらつまみ上げていくその様はえげつないの一言に尽きる。
後味は悪いものの、これで全ての葬式の過程が終わったのだ。
車で祖父母が住んでいた家に帰った。途端、解放感に満ちた。
ようやく長い身内の死との向き合いにケジメをつけることが出来たのだ。
誰が死んでも地球は回るというのはまさにその通りで、
じきに私たちは日常生活に戻る。
しかし祭場での父の言葉を忘れてはいない。
「祖母の姿形を失った我々は残された遺志を継ぐほかない」のだ。
それこそが唯一残った祖母の「欠片」なのだ。

私が幼い頃。
祖父母の家から離れたくなかった私に祖母はオルゴールをくれた。
私も祖母に手紙を読み上げて贈った。
時折散歩もしてくれた。
手を握って見上げた背中はあまりに大きく、
冷たい冬でも絶えず温もりを感じた。
祖母は町内でも好かれていて
町の人に会っては私を宝物だと喧伝してくれた。
電車での旅も連れていってくれた。
祖母は歌が好きだった。よく口ずさんでは山の風景を眺め
感動の声を漏らしていた。
それとは対照的に、幼さゆえ私はその美しさに気づけなかった。
私が外道に堕ちた時も味方して、
その苦しみから抜け出せるように祈ってくれた。
温泉に泊まっては、私の話を聞いてくれた。
ただ肯定してくれた。
妹を可愛がったのも祖母だったし、
コロナ禍になって離れてても
メッセージを通じて家族仲を取り持とうとしてくれた。
善人の生き字引のような人だった。
人間不信の私にとっては稀に見る純粋な善人だった。
そんな聖人が私に求め続けたのはただひとつ。
「元気でいろ」
伝え続けたのはただひとつ。
「お前は私の宝物だ」
もう祖母はこの世のどこを探してもいない。
唯一祖母にすがり付くなら、祖母が遺した記憶と言葉そのものだ。
それを私たちが覚えている限り、祖母は消えないと思うのだ。
そしてこんな形で全てを終えたが、さよならは言わない。
きっとまたどこかで会える。
何故なら、死んだあとのことは分からないから。
祖母に贈った手紙の最後に、こう綴ってある。


「また会おうね。」


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