おにぎりの話。
私はおにぎりが好きだ。
今でもお昼ご飯としてよく食べている。
スーパーやコンビニにいけば、手軽に様々な種類のおいしいおにぎりを調達できる。
改めて考えると、あんな値段でいいのだろうか、と首を傾げてしまうほどのクオリティである。
かといって、私にはお昼ご飯は300円以内に収めないといけないというミッションがある。
(家計からは300円までしか出ない。はみ出た分はお小遣いから支出することになるからだ。)
もし値段が上がってしまったあかつきには、Youtubeを見るタブレットを取り上げられた子どものような恨めしい視線を、おにぎりに向けることになるだろう。
ちなみに300円ルールがあるため、私は200円以上するワンランク上のコンビニおにぎりを食したことがない。
200円代なのだから300円以内で買えるじゃないか、とあなたは言うかもしれない。
しかしそれはさすがに浅慮がすぎる。
雨が降ると聞いて、傘を持たずに出かけるようなものである。
300円あれば、たしかに200円代のおにぎりは買える。
なるほど私はポンコツかもしれないが、さすがに小学生低学年で習うこのレベルの計算ならできる。
(誰がポンコツじゃ!)
だが、考えてもみてほしい。
いくら身体が小さくとも、私は成人男性なのである。
成人男性のお昼ご飯が、おにぎり1つというのはいかがなものか。
さすがにおにぎり1つでは、私の腹は満たせない。
せめて2つ、食べたいのだ。
この条件を元に考えるとどうだろう。
200円代のおにぎりを買って、なおかつ2つおにぎりを食すには、
2つ目のおにぎりは100円以下であることが絶対条件なのだ。
しかもこの計算には消費税が含まれていない。
消費税まで考えると、仮に200円だったとしても220円。
税込80円以内で2つめのおにぎりを買う必要が出てくる。
たしかに、まいばすけっとやオーケーストアにいけば、税込80円以下でおにぎりを入手することも可能ではある。
しかし、だ。
そもそもお昼ご飯を買うのは朝の通勤時であり、使える時間が少ない。
その上で、200円代のワンランク上のおにぎりを購入するには、セブンイレブンやローソンなど、
ふつうのコンビニに足を運ぶ必要がある。
つまり、ふつうのコンビニ→まいばすけっとなどのディスカウントストアをはしごするということである。
(まいばすけっとがディスカウントストアかどうかの議論は脇においておく)
ただでさえ忙しい朝の出勤前の時間に、はしごするような暇があるのか。
答えは「否」だ。
わかったか。だから浅慮だといったのだ。反省しなさい。
・・・。
って、
ちがうちがうちがう!!
私がしたかったのは、コンビニのおにぎりの話ではないのだよ。
もうちょっとこう、温かみのあるおにぎりの話がしたかった。
つまりはそう。
記憶の源泉にある、母が握ってくれたおにぎりの話だ。
小学生のころ、私はサッカー部に所属していた。
サッカー部では遠征がたびたびあり、遠征に行くたびにお弁当を持っていく必要があった。
何度言われても食べ終わったお弁当箱をカバンから出し忘れる習性を持つ私は、自分のその習性に対抗する秘策を思いついた。
すなわち、「お弁当箱を持って行かない」である。
お弁当箱を持って行かずにお弁当を持っていく。
そんな矛盾のような話を実現する方法が、おにぎりだったのだ。
お弁当をおにぎりにしてもらえば、カバンの底にたまるのは丸まったアルミホイルだけである。
アルミホイルは腐らない。
つまり、出し忘れし放題なのである。
そう、私は昔から天才だったのだ。
だから。
小学生の私は、母のおにぎりを腐るほど食べた。
カバンの底には丸まったアルミホイルが腐るほど溜まったが、アルミホイルは腐らなかった。
天才の所業である。
私はゆかりが好きだったから、大抵の場合はゆかりを混ぜたおにぎりだった。
たまにあるのが焼きたらこ。
白米と焼きたらこ、そして海苔の組み合わせって最高だよな。
今も想像だけでよだれが出てきてしまったよ。
あと好きだったのは、そぼろおにぎり。
そぼろの油のせいでお米のくっつきが甘く、ポロポロこぼれてしまうけれど、その煩わしさを差し引いても、そぼろのおにぎりはおいしかった。
よく晴れた校庭の片隅で、冷んやりとしたオブジェのような謎のコンクリートの塊に座って、友達としゃべりながら食べるおにぎり。
思い出補正もあるとは思う。
でもあのおにぎりは、控えめにいってもめちゃくちゃおいしかった。
私はおにぎりが好きだ。
今でもお昼ご飯としてよく食べている。
娘たちもおにぎりが好きだ。
たまに私がおにぎりを握ると、とんでもないごちそうのように喜んで食べてくれる。
(決してひもじい思いをさせている訳ではないので、勘違いしないでいただきたい。)
娘たちはゆかりが好きだから、大抵の場合はゆかりを混ぜたおにぎり。
母から私、私から娘たちへ。
「受け継ぐ」と呼ぶのはおこがましいほど些細なものだけど、たしかにつながっているものがある。
私はおにぎりが好きだ。
これからもよく食べるだろう。
娘たちもおにぎりが好きだ。
父が握ったおにぎりを、喜んで食べてくれるのはいつまでだろうか。
いつか来るその日まで、
きっと私はおにぎりが大好きなのだろう。