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「民主的」と「インクルーシブ」の関係

【民主的でインクルーシブな学校】というのを個人としてもSVPとしても標榜している。『民主的』とは、一人ひとりの声が、小さな声でも大切に聴かれること。『インクルーシブ』は多様性を前提としてみんながいやすい・排除されない状態を枠組みや文化を問い直しながら目指していくこと。両者は相互強化し合う関係。

民主的で子どもの声が聴かれる環境があれば、子ども(というマイノリティ)の「これ、しんどい」「ここ、困ってる」が"見える化"し、それを反映して枠組みや文化を修正・変革していくことができる。「子どもの参加」はそれ自体が権利であると同時に、他の権利を守るための重要な手段でもある。

子ども(というマイノリティ)の中にも、特に差別を受けやすい「しんどい」「困った」状況に置かれやすい立場・属性を持つ人たちがいる。(インターセクショナリティ)
学校(社会も)は基本的にマジョリティに合わせてつくられている。これは意識的に変えていこうとしない限り、"自然とそうなる"。

当然「自分のような人」の存在が前提とされていない場では、マイノリティは声を出しにくい。まず「いるよ」って主張しなきゃきゃいけないし、そしたら変な目で見られることもあるし、自分の困りごとを(景色を共有してない理解されづらい人たちに)説明しなきゃいけないし、差別を受けるリスクもある。

インクルーシブ(DE&I)="マイノリティ当事者による困り感の申し立てがなくても" 積極的に進めるということは、あるのにないとされている小さな声が聴けるようになっていく=デモクラシーが育っていく、ということでもある。

この両者の関係をこれまでうまく説明できなかったんですが、自分の中でわりとスッキリ整理できて、文字にできてうれしい。

※なお、職員室も一緒だと思います。

<追記>
石川晋さんが「かつて中学校の教員は荒れる学校の中で自分達はマイノリティだと感じていたと思います。子どもたちの方が圧倒的に数が多いという意味でのマジョリティで教員は彼らに押しつぶされないように必死だったと思います。今もそこの意識転換が難しいということもありますかね。つまり子ども(マイノリティ)は、ぼくは必ずしも自明のことではないと思います。そこの納得を丁寧に図らないといけない気がします」というコメントをFBでくれて「なるほど...」となった。

あと、民主的でインクルーシブを目指すことは現場にとってはめっちゃしんどいこと(そもそも多様性ってパラダイスじゃなくて、いっしょに生きるって大変なのよ...それでも目指すのよ...)ってことも共有されるといいというコメントと、やっぱ今の枠組みでは無理ゲーではというコメントがあり、いずれも発信するときに意識したいことだと思った。

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