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Replay (リプレイ)
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(過去ブログより。2018年11月4日)
大腸癌の手術で一ヶ月ほど入院し、退院後、食事のこともあり、3週間近くも実家に厄介になって毎日ぶらぶら怠惰に過ごしていたが、永久にそうしている訳にもいかず、数日前誰もいない自宅に戻ってきた。だが相変わらずのダラダラ生活、これでかれこれ二ヶ月近くも仕事もせずに毎日自堕落な生活をしていることになる。「小人閑居して不善を成す」と言うが、私の場合、積極的に不善をなす訳ではないが、このようにたっぷり有り余った時間を、徒然に散歩したり本を読んだり、ブログを書いたりと徒らに過ごすばかりで、何ら生産的なこと、クリエイティブなことに気持ちが向かない。危機的な状況に直面した時にその人の本質が分かると言うが、案外こういう暇な時にも人間の器の大きさがはっきりするのだろう。「小人閑居してお里が知れる」である。
小人閑居してお里が知れるついでに書くと、暇なのでパソコンやハードディスクの中を整理していると、以前しばらく付き合っていた美帆 (漢字は変えてあります) というキャバクラの女の画像が一枚出てきた。すべて消去し、ついでに脳ミソのハードディスクからも消去したはずだったので、この綺麗可愛い若い女と、いい年こいた大人の、内心はニヤけているが、それを押し隠すような渋面の、突然の2ショット写メは、恥ずかしい過去の不意討ちを喰らったようで、少し狼狽えてしまうと同時に、当時のお馬鹿でお目出たい日々を思い出し、甘ったるい感傷にしばし耽ったのであった。まぁ、容姿、性格も含めてかなりイイ女であったのは確かだろう。
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いろいろ想い出はあるが、私の呆れるほど不埒なろくでなし振りを一つ披露すると、今はもう無きジャズハウス「S・J」で、ジャズの生演奏を聴きながら、腰をぴたっと付けて隣に座るその彼女のその腰に手を回し、周囲に分からぬようスカートの下に手を滑り込ませ … (以下省略)。まぁ、そんな程度の低い奴なのである、私という男は。今さら隠しもしない。とにかく、彼女は気の強い女ではあったが、その当時、そういう破廉恥な事を黙って許すほど私を受け入れていたのは確かである。もちろんすでに男と女の関係ではあったのだが…。
彼女は、夜のキャバクラはバイトで、昼はちゃんと定職を持っていた。父親はDV夫で、彼女が幼い頃に母親と離婚し、彼女は母親と二人暮らしであった。そして昼と夜で稼いだお金の一部を母親に渡している健気な女だった。幼い頃から父親を知らないので、年上のしっかりした男性に憧れるようなところがあり、そんな次第で私と付き合うことになったのだろうが (彼女があまりにも私の好みのタイプだったので、私が口説き落としたというのもあるのだが) 、それにしても30近くも年齢差があった。包み込むような愛情に飢えている、まさにそういう印象だった。職場が私の職場と近かったため、昼休みの休憩によく会いに来て、一緒にランチをしたものである。それほどにラブラブな関係だったが、ある時ケータイを床に投げつけるほど私がキレてしまい、それが元で結局薬局破局となってしまったのであった。
その細かな経緯は省くが、母親にDVをふるう父親のトラウマを持つ彼女は、キレてケータイを床に投げつけるという私の行為をどうしても許せなかったようだ。しばらく付かず離れずだったのだが、矢張り彼女の側の絶対的な信頼感がそれで決定的に壊れてしまったのであろう、最終的に完全に別れるという結果になってしまったのであった。誓って言うが、彼女に直接暴力はふるっていない。女に暴力をふるうなど、生涯一度もない。しかしそれは言い訳にはなるまい。彼女には同じことだったのである。私が、キレてケータイを床に投げつけるという行為をすること自体、許せないというより信じられないことだったのである。
何故あの時、あれ程までにキレてしまったのか?本来、年齢差や彼女の生い立ちなどを考えれば、もっと暖かな大らかな愛情で包み込んであげるべきだったのだろう。何故それが出来なかったのか?
自分ではよく分かっている。それは、私が人を信じない人間だからである。自分でも嫌になるほど狭量で、真の意味で自分のことしか考えない、器の小さい愚かな人問嫌いなのである。昔からずっとそうであった。私の家族でそうでないのはあの優しい母親だけだ。ただ昔と違うのは、それを自覚し、時には反省できるようになってきたことだ。愚かであっても、それなりに亀の甲より年の功か。情けないのは、私の場合、自らの愚かさを知り、ある程度の謙虚さを学ぶのに、人の10倍の学習体験と時間が必要だったようだ。この年になってやっと、自分がいかに愚かな人間であったか、良く「見える」ようになってきたのである。
昔、Yという面白い教え子がいて、哲学や政治思想などという小難しいことだけではなく、女のことや下ネタやキャバクラのことも何でも話せる奴だったが、ある時どういう経緯でそのようなことを言ったのかもう忘れてしまったが、私が「先生もこの年になって、ほんとに自分が愚かな人間だとしみじみ思うようになってきたよ」とYに言うと、彼は30才以上も年上の私に向かって生意気にも、そして「いみじくも」次のように言い放った。
「先生、自分が愚かだと思えるようになったということは、それだけ賢明になったということですよ。」
その時、そのような「生意気な」ことを30才以上も若い、たいした人生経験もないケツの青い「ガキ」に言われ、私は不思議とまったく腹が立たなかった。彼は人生経験こそ少ないが、失礼なこととそうでないことを最低限わきまえている普通の青年であり、その口調には信じているからこそ言えるきっぱりとした感じがあり、むしろ、それを聞いて爽やかな気分にすらなったものである。そして、その年でそのようなことをさらっと言ってのける彼に、年齢とは関係のない何か老成した賢明さを感じ、大いに敬服したものである。「栴檀は双葉より芳し」と言うが、ある種の才覚や賢明さが生まれつき備わっている羨むべき人がいるのは確かである。それ以外の大多数の、生まれつき愚かな我々は、自らの愚かさを自覚し、その分賢明になる為には、痛い痛い失敗を何度も何度も繰り返さねばならないのかもしれない。
だが、自らの愚かさを知り、それだけ賢明になるのに、どれほどのものを失ってこなければならなかったのか?例えば美帆のことを想うと、それを否が応でも思い知らされる。
あの時、もし~していなかったら…
あの時、もし~していたら…
人生は、捨て切れずに積み重なってゆくその「もし」のゴミの山である。これにこそ今流行りの断捨離が必要なのだが、心の中に降り積もった形のないものほど人は捨てられない。過去のそういうものをあっさり捨て去り、次っ!とばかりにあっけらかんと、ひたすら明るく前向きに人生を歩む人もいるが、私はそういう人間をどうしても信用できない。だが、一見そのように見える人も、実はそう見せかけているだけで、内面はムンクの叫びのようなものかもしれない。
その「もし」を、少しは賢明になった現在の経験値と記憶を持って繰り返せたら…?
ここで、誰もが願うその想いをそのまま小説にし、1988年度の世界幻想文学大賞を受賞した優れた小説を一つ紹介したい。ケン・グリムウッドという作家の「リプレイ」というSF幻想小説である。
経済的にあまり成功せず、妻ともうまく行っているとは言い難い、しがないラジオ局ディレクターのジェフは、43歳(1988年)の時、心臓発作による突然死を迎える。だが、奇妙なことに次の瞬間目を覚まし、43歳の記憶を持ったまま、1963年の時点の18歳の若い自分に戻っていることに気付く。そして彼はその未来の「記憶」を存分に活かし、予想賭博などのギャンブルで巨万の富を築き、夢のようなやり直しの人生(リプレイ)を謳歌するが、不思議なことに、最初に死んだ43歳になると何故か再び突然死し、そのすべての記憶を保持したまま、人生のリプレイを強制再開させられる。これを何度も繰り返し、その中で生きる意味を失い、自暴自棄と諦観に囚われるようになるが、同じ立場の女性と巡り合い、ジェフは改めて人生に向かい合うようになる。だが、強制リセットされ過去の自分に戻る度に、戻る年齢が少しずつ43歳に近付き、リプレイする期間が次第に短くなってゆくことに彼は気付き、やがて究極の絶対死(リプレイの終了)が訪れることを知る。
テーマ自体は「現在の記憶を持ったまま、もし過去の自分に戻れたら?」と、誰もが思い付きそうな安直なものなので、私自身、最初あまり期待せずに読み始めたのだが、プロットや構成が非常に巧みで、ストーリーが進むにつれ、すぐに小説の世界にぐいぐい引き込まれてゆく。だが、どれほどストーリーテリングが巧みであっても、それだけでは、リプレイを何回も繰り返すその展開は平凡で退屈で、最後まで読み通したとしても、それほど深い印象や感動を残さなかったであろう。そうならなかったのは、やはり、生きる意味を問いかけるケン・グリムウッドの姿勢が非常に真摯で、しかもその問いかけが非常に深く、それがありふれた言葉の随所に表れ、読む者の心に響くからであろう。いずれにせよ、世界幻想文学大賞を受賞していることでもあり、タイムループものの傑作の一つであるのは間違いないが、ジャンルに関わらず小説として素晴らしい小説であり、SFものや幻想文学にあまり馴染みのない方にもぜひ御一読をお薦めしたい。
実は、私自身もこの小説を或る人から薦められたのである。今から10数年も前のことであろうか?その人は、私が学生の頃の親友と言ってもいい友人の彼女であり、そしてその後、その友人の奥さんとなった人で、私はその友人だけではなく、その彼女とも親交があった。正真正銘、初めてここに告白するのだが、その彼女には出会った頃からずっと憧れていて、淡い恋心とでも言うべきか、ともかくそういう想いをずっと抱き続けてきた。誰にも言ったことがない。恐らく本人もまったく気付いていないであろう。
彼女とは妙に馬が合ったように思う。それは私の勝手な思い込みかもしれないが、少くとも私の中では、人になかなか説明しにくいことを不思議と妙に分かってくれる存在であった。好みはそれぞれ違ったが、文学や本や芸術のことをあれこれ語り合った。私が結婚してからも、彼女ら夫婦とは家族ぐるみの (と言っても、どちらにも子供はいなかったが) 付き合いをし、4人でいろんな場所に旅行に行ったものだ。ある時なども、簡易宿泊施設の一部屋に布団を敷いて4人一緒に寝た時があったが、それぞれの配偶者が寝てしまってからも、彼女とは明かりもつけずに、小説のことや文学のことを遅くまで語り明かしたものである。
その後、彼女ら夫婦は遠い所に転居し、私も妻と離婚し一人になってしまった。
その友人と、その妻である彼女とも、メールのやり取りはしばらく続いたのだが、ここから語るのは少し心苦しい。実は、彼女の夫であるその友人と、私は心の中で一方的に親交を絶ってしまったのである。それは何故か?
それはひとえに、この記事の初めの方で述べた私の狭量さ故のことである。最初はそうではなかったのだが、ある時期以降、私は彼に複雑な感情を抱くようになっていた。一言で言えば嫉妬なのだが、それは彼女を妻にしていることに向けられたものではない。そういう単純な恋愛感情に基くものではなく、もっと内面的にどろどろした嫌らしいものであった。簡単に言えば、彼らの結婚は、私から見れば完全な逆玉だったのである。彼は確かに能力のある人ではあったが、結婚してからの彼の経済的な順風満帆振りはどう贔屓目に見ても彼の実力だとは思えず、その人生を謳歌するような一人よがりの自己満足的な態度が非常に鼻につくようになっていたのである。恐らく彼にはそういうつもりはまったくなかったであろう。彼にしてみれば、謂れなき妬み僻みの類いであろう。人間として下の下、最底な人間だったのである、私は。
私にしても、何も世の逆玉の男すべてを妬む訳ではない。そこまで心に余裕のない人間ではないつもりである。何故か彼だけは、その恵まれた境遇と、それを自分の中で良しとしている姿が許せなかったのである。恐らく他の人間または友人ならば何とも思っていなかったであろうと思う。矢張り、その気持ちに彼女の存在が影を落としていたのであろうか?彼は相応の努力をしていない、彼女に相応しくない存在である、と心の中で切り捨て、手前勝手な心理的関係性の中で彼を彼女と切断することにより、心の充足感を得ていたのだとすれば、それこそ最底の人間である。その最底の私が言うのも何であるが、そういう人間は口をきくことすら価値がない。口をきくために息をすることすら勿体無いぐらいである。それほど私は、私の本質において嫌なヤツなのである。
その彼と心の中で親交を絶ったその頃、彼女は自分の仕事の関係で月に一度、私の職場の近くにまで出て来ることがあり、その時必ず私に連絡をくれるようになった。そうして月に一度必らず、昼頃から夜の8時か9時頃まで一緒に展覧会に行ったりお茶をしたり、食事をしたりと行動を共にするようになったのである。その間、手を繋ぐ訳でもなく、腕を組む訳でもなく、ただひたすら友人として他愛もない話をしながら、たっぷり二人っ切りの時間を過ごし、9時頃彼女は予約しているホテルか知人のところに戻って行くのだった。
そしてある時、私の行き付けのジャズバーの話になり、そこに行くことになった。二人で何杯か飲み、9時過ぎだっただろうか?そこを出て、少し散歩でもしようということになった。どれぐらい歩いただろうか?少し火照った顔に夜の冷気が気持ち良かった。腕は組んでいなかったと思うが、少し酔って気分良く、二人寄り沿うようにして歩いたのを覚えている。私は、今さら言うのも何だが、最底な男である。その時、私は、彼女の唇を奪いたいという強い衝動と闘っていた。いや、闘っていたというのは嘘である。何故なら、何気なく歩く振りをしながら、私の足は、よく知っている人気のない仄暗い公園に向かっていたからである。そこにベンチがあるのを知っていた。とことん狡い男である。幸か不幸か、誰もいなかった。「座る?」と言って、ほんの少しでも彼女が抵抗する素振りをすれば、何もかも諦め、彼女を駅にまで送っていくつもりだった。だが彼女が素直に従えば、頃合いを見計らって肩に手をかけ、その肩を引き寄せ……、そのリハーサルで私の頭はいっぱいだった。
「座る?」と聞くと、彼女は無言で座った。そのすぐ横に私も座った。心臓が早鐘のように打っていた。女性とキスをするのに、そこまで緊張することはもう滅多になくなっていた。どのぐらいそこにそうして、ただ座っていただろう?ほんの二、三分だっただろうか、それとも数十分はそうしていたのか?何を話したのか、そもそも話をしたのかどうかすら覚えていない。
普段の、最低な私なら、逡巡の欠片も示さず、するべきことをしていただろう。そして少しでも抵抗されれば「ごめん」と謝り、すぐさま彼女を駅まで送っただろう。
だが、私は何も出来なかった。肩を引き寄せることすらしなかった。しなかったのか、出来なかったのか、それすら賞えていない。どちらにせよ、相当気まずい雰囲気だったのは間違いない。最後の最後で怖じ気付いたのか、最低限の倫理感が働いたのか、彼に対する贖罪のつもりなのか、それとも、そこでそうしてしまうことによって招くかもしれない亊態を短時間で冷静に判断したとでも言うのだろうか?そのすべてが入り混じった理由なのか?だが、そのどれもが日頃の私らしからぬことであった。
今では、それで良かったのだと思っている。彼とも彼女とも現在はまったく付き合いはないが、恐らくとても幸せに暮らしているのだろうと思う。彼女は、私が想いを抱き、すぐ手の届く距離にまで近付き、私が手を出さなかった唯一の女性である。つまり、ある意味、私にとって特別な人なのである。そして特別な人のまま、私の心の中に生き続けるだろう。
「あの時、もし…… 」という想いとともに。
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