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開業まで37年。開業したら6年で経営破綻した鉄道会社。千葉急行(現・京成千原線)はなぜ破綻したのか?(上)
はじめに
京成千葉駅からちはら台まで、京成千原線という路線があります。他の京成線とは別運賃。電車は20分ごと。ちょっと変わった路線です。
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この京成千原線は「千葉急行電鉄」として開業しました。
開業したのは千葉市が政令指定都市になったまさにその日、1992年4月1日です。
この千葉急行電鉄。開業まで37年かかったのに、開業したら6年で経営破綻してしまいました。今回は千葉急行のあゆみを見ながら、その原因を探ります。
小湊鐵道の描いた夢
千葉急行線(京成千原線)は小湊鐵道が千葉に乗り入れるために計画された路線が始まりです。
小湊鐵道は、起点の五井駅から千葉駅まで伸ばそうと戦前から取り組みますがうまくいっていませんでした。
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戦争が終わって10年後。1955年1月13日 小湊鉄道は国鉄房総東線(外房線)本千葉駅ー小湊鉄道海士有木間の免許申請をします。
房総東線の本千葉駅とは、現在の京成線千葉中央駅のところです(正確にはちょっとだけ南側)。
千葉市は、戦争中、空襲に遭います。そこで千葉市は、戦災復興都市計画を作り、区画整理のため、国鉄、京成、共に千葉市内で駅を移転します。その結果、京成線の終点だった京成千葉駅は当時の、国鉄房総東線・本千葉駅の跡に移転します。移転前の京成千葉駅は、現在の千葉中央公園のところです。
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そして、小湊鐵道が免許申請をした3年後の1958年2月10日 京成の駅が現在地(旧房総東線本千葉駅)に移転します。
1957年12月27日 小湊鉄道は本千葉~海士有木間の免許取得を取得します。軌間、レールの幅は1067mm。動力は蒸気またはディーゼルといことで、今の小湊鐵道と同じ規格の鉄道です。敷設の目的は一般旅客及び貨物とのことです。
ちなみにこの路線、計画線は千葉中央から千葉寺までは現在線と同じですが、そこからは現在と違って、内房線と並行して走る予定でした。
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京成との乗り入れ計画
一方、京成電鉄は1964年8月、東陽町ー千葉寺間新線の免許申請を行います。路線は、東陽町-砂町-オリエンタルランド-船橋港-谷津-稲毛海岸-千葉港-千葉寺です。オリエンタルランドは今のディズニーリゾートです。
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この京成の新線は、小湊鉄道線新線との直通運転を目指しました。ルートは、舞浜から千葉県内は京葉線とほぼ一緒。京葉線は貨物線として計画されたので、旅客線は京成が建設したいとの意向でしたが、結局免許は取得できませんでした。
ちなみに、船橋港は今の南船橋。当時、ららぽーとは船橋ヘルスセンターという温泉を中心としたレジャーランドがあり、近隣に京成の谷津遊園もあって、千葉県内の一大レジャーランドでした。1961年には、京成電鉄が谷津遊園から船橋ヘルスセンターまでの遊覧鉄道の免許を取得していました。
このような中、5年後の1969年12月、小湊鐵道は地方鉄道起業目論見書記載事項変更認可申請を行い、内陸沿いの路線に変更します。
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この路線変更によって、市原市辰巳台に経由することとになりました。
同時に、目的を旅客だけに、軌間を1435mm、動力を電気(直流1500V)にして、京成と直通できるようにしました。
この時点で千葉中央・辰巳団地間の用地の70%が買収終了していたようです。(小湊鉄道と京成電鉄が用地買収を実施)。
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当初より内陸部になっている
親会社京成の凋落
しかし、小湊鐵道がこの変更申請をした、まさに1969年から、京成の苦難の歴史が始まりまふ。
1969年、東西線が西船橋まで延伸。千代田線が北千住まで開業して、千葉エリア、都内エリアとも、乗客が転移します。そして1972年、総武快速の東京-津田沼間が開業して、船橋での逸走が顕著になります。
これら競合路線開業によって、京成の乗客は、船橋より西の区間で二割ほど減少します。
さらに、1972年に京成成田-成田空港(現・東成田)まで完成するものの、成田空港逃走の影響で、1978年まで開業できない事態に陥ります。
このような状況下、1973年2月21日、千葉急行電鉄が発足します。
千葉急行電鉄が発足した理由は、京成としては、独力で建設するのはリスクが高いので別会社を作ったとの見解です。同様に、前年の1972年には北総開発鉄道が発足しています。
1973年7月23日、小湊鉄道から千葉急行に免許譲渡譲受認可申請をします。
そして、1973年11月 オイルショック発生。京成の経営が傾き始めます。
このような中、1975年12月20日、小湊鉄道から千葉急行に免許譲渡譲受認可申請が認可されます。
1976年12月、千葉急行電鉄は再度地方鉄道起業目論見書記載事項変更認可申請を行って、現在の路線を申請します。
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第三セクター鉄道への歩み
1977年、事態は大きく動きます。
1977年5月11日 日本住宅公団のおゆみ野・ちはら台区画整理事業が認可されます(人口12万6000人の「千葉・市原ニュータウン」を建設)。
そしてついに、1977年5月31日千葉中央ーちはら台間の工事施工認可(現路線に変更)が得られて、着工に向かいます。
翌年の1977年8月 日本鉄道建設公団の民鉄線工事(P線工事)に指定となり、25年間の元利均等払、5%以上の金利を国・地方自治体が補助という条件で、1977年8月31日に工事着工します。
まぁ、この金利がのちのち千葉急行を大いに苦しめることになるのですが。。。
1977年千葉急行に対して千葉県、千葉市、市原市が出資、1978年に宅地開発公団(現UR)が出資。千葉急行電鉄は第3セクター鉄道になります。
着工したものの、沿線開発は遅れます。着工後ニュータウンの排水路となる河川改修に手間どり、造成が大幅に遅れます。また、おゆみの駅周辺では文化財発掘調査が始まります。
ちなみに、1988年時点の千葉急行の出資者はこのようになっていました。
【出資比率 1988年3月】
京成電鉄:24.8%
小湊鉄道:8.3%
北総開発鉄道 1.7%
その他鉄道 1.2
金融機関 8.3%
千葉市:12.5%
千葉県:8.3%
市原市:4.2%
住都公団:8.4%
その他: 23.3%
自治体の出資は25%の出資に留まり、第三セクターてつどのものの、各種助成金を受ける際に、民間企業扱いをされました。この出資比率ものちのち千葉急行を苦しめます。
しかも、鉄道建設が始まって12年後の1989年時点で、千葉市原ニュータウンは計画人口12.6万人に対して,現住人口8.100人に止まっていました。
千葉県は,京成電鉄に対して千葉急行電鉄の早期開業を要請しましたが、京成電鉄はニュータウンが熟成していない段階での開業に不安を持っていました。さらに、ニュータウンの造成主体である日本住宅公団と宅地開発公団が統合してできた住宅・都市整備公団も,JR外房線で十分対応できると考えていました。
ついに開業!
そしてついに、1992年4月1日千葉中央ー大森台(4.2Km)を開業します。
小湊鉄道が免許申請をしてから37年経って開業の開業です。
ここから先、開業後の苦難の歴史はまた次の機会にご紹介します。