おまもりしごとの罪と罰(犬にしてはよくしゃべる#2)
おまもり稼業
今年の4月は異動もなく、比較的平和な年度末、年度初めを送っていたはずなのですが、振り返れば、例年通りしっかりと病んでました。
昨年から担当していたプロジェクトが2月に一旦終了し、当初予定していた成果を出してフィニッシュしたのを見届けて、3月から5月くらいまで業務的には閑散期に入っています。
一方、そんな中で最近ぐっと増えた仕事として、「おまもりしごと」というものがあります。
役員の随行としてでかめの会議に赴き、人間の体を持ったSiriとして、「あれどうだったっけ」の「あ」の声が出ると同時に資料を準備したり、若干不安げに振り返ったら大きくうなづいたりするおしごと。
若者の経験のために、若者がメインスピーカーとして向かう取引先に同行し、175cm、95kg、坊主、という恵まれたルックスを活かして、先輩としてフォローするおしごと。
といっても、優秀な皆さんばかりですので、基本的には、ミッションの時間中、何回かうなずいて終わるだけの簡単なおしごとです。
ただまあ、自分の性格として、有事があったときに絶対にミスをできないという気持ちになってしまい、最悪の場合、自分が身体を張るかもしれないという求められてもいない役割を勝手に認識して、かえって残業が増えてしまいました。
よく考えれば、そもそもそうなればリスケされるか、その人と同じレベルの適切な肩書きの人がセットされるだけなのだが、生粋の心配性はいくつになっても健在で、もうそういう理屈じゃないところで、勝手に病んでいくわけです。
求められているのは、あくまで「おまもり」であって、「身代わり」ではないのに、なぜか燃えてもいないところに火を付けて燃えに行く想像をして病んでしまう。
3月4月と傍から見ると暇そうに見えたはずなのだが、憲法で保障される内心の自由が悪い方に作用して、加速度的に精神的に病んでいき、しまいには、ちゃんと高熱まで出していました。
私が「おまもり」になっていたのは、その業務について、一応それなりにキャリアを持っているからであって、よく考えればそれはとても名誉なことなのですが、どうも冷静さを失っていた自分は「おまもりとして成果を上げなくてはならない」というかなり間違った方向に気持ちが傾いていました。
おまもりは、ちょっとその人の行動を勇気づけるくらいの存在でいい。
そんな冷静さをもって、5月以降も業務に邁進していきたいですね、本当。
不確かなものをおまもりにしてはいけない
そんな業務的な病み期まっただ中、短歌結社塔短歌会の新人賞「塔新人賞」の結果発表がされ、当方は、最終選考にも残らず落選していました。
で、まあ、後日、体調が徐々に悪くなっていく中で、選考座談会を読んだ夜、やってしまったわけですね、病みツイ。
お酒を飲んだらツイートはしないと決めているんですが、体調が悪くてもそういう感情がむき出しになってしまうことをはじめて知りました。
病みツイって本当によくないと思ってて、それはそういう自分が恥ずかしいからではなく、自分の意図しないところで誰かが嫌な気持ちになったり、傷つけてしまっているのが忍びないという感情なんですよ。
自分が恥ずかしい人間であることは、これまでも短歌やエッセイを通じて積極的に見せびらかしてますし、何なら最近はラジオまではじめて生き恥をさらしながら、同じような感情のある人に少しだけでも笑ってもらえたら、という気持ちなんですけど、やっぱり誰かが悲しい思いになってしまうことは避けたいんですよね。
しかしやってしまった、病みツイ。
やってしまったあとになって、塔新人賞の最終選考に残っているだろう、ということをおまもりにして年度末・年度初めを乗り越えていたことに気付き、不確かなものをおまもりにすんじゃないよ、あんた会社で15年くらいやってきてやっとおまもりになってるんだから、落ち着けよ!と今なら思うものの、時すでに遅いわけでした。
病みツイは、大体消したのですが、戒めのためにはじめの1つだけ残してます、やっぱりよくないわね、本当。
今後は、改めて気を付けます。
いろいろご心配をおかけしてすいませんでした。
ただ、たぶん、またしちゃうと思うので、そのときは引き続き生暖かい目で見てやってください。
そういう弱さを実生活で出せないコンプレックスから文芸をやっている、というややこしい人間でもありまして(でも、めっちゃ気を付けます)。