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国立(後編)


 明けて翌’93年の2月、JAGATARAなきJAGATARAに参加した。OTOさんが何曲でリードヴォーカルを務めるので、その補強という役割を任ぜられ「SUPER STAR?」「そらそれ」等でギターを弾いた(これもどこかに映像があると思う)。特にJAGATARA後期でかなり印象に残るこの二曲に加われたのは何より嬉しかった。それ以前のことだが前編前述のミスタークリスマスにOTOさんが参加しJAGATARA最後のアルバム『おあそび』の曲を披露したこともあったし、この頃は彼のサウンドプロデュースの録音には個人的にもいくつか参加している。当時の私のエレキギターはアフロ・インフルエンスと言っても構わない。
 そして、OTOさんからママドゥ・ドゥンビアさんを紹介され、彼のバンド、マンディンカに加入することになるが、実はママドゥにはそれ以前にも会っていて、多分サリフ・ケイタの来日時、ミスタークリスマスとドラムスのブリス・ワッシー氏とのセッションがあり、その後下北沢の酒場レイズ・ブギーで後からやってきたママドゥをワッシー氏が紹介してくれたのだ。その時は英語で挨拶したに過ぎないが、改めて紹介された時には「何だ、君か」と日本語で笑っていた。
 マンディンカの話はその後いろいろあるが、ここでは音源の紹介のみにしよう。

1st.アルバム『MANDINKA / independence』(1995)より

2nd.アルバム『MAMADOU DOUMBIA with MANDINKA / YAFA』(1997)より

 話は’93年に戻る。その頃、篠田さんの実姉、佐竹美智子さんから連絡をもらう。美智子さんとは篠田さんが亡くなったときにお会いしただけだったが、その後、私が篠田さんに渡したデモのカセットテープをよく聴いてくれていて、その感想を述べてくれたのだ。そして’93年4月彼が生前に企画していたライヴを浅草木馬亭で中尾勘二さん、関島岳郎さん、久下惠生さん、と共に行い、これが現在のストラーダとなる。
 その7月に篠田さんの追悼ライヴがあった。今でもよく演奏している「身それた花」(中尾勘二作)。

1993年7月16日 関島・中尾ユニット 於 渋谷クラブ・クアトロ

 更に翌年の’94年、美智子さんを介してテント芝居集団の首謀者である桜井大造さんを紹介される、この時が国立の居酒屋の庄屋だったが、この店にはその後芝居の打ち上げで何度も足を運ぶことになる。初対面の大造さんのエネルギーに圧倒された夜だと記憶する。そして新しく旗揚げした集団『野戦の月』(現・野戦之月)の初公演「幻灯島、西へ」の音楽を担当することとなった。
 これは最初は緊張した。中尾、関島、久下の他に大熊ワタルさん、西村卓也さんというメンバーで私以外は、その前身の『風の旅団』から関わっている方々ばかりだ。新参者だったが、なんとかやり遂げた。音楽全体をまとめるに当たっては大熊さんの協力が重要であり、これまた現在でも参加しているシカラムータの私にとっての原点でもある。音が出来、南千住公演を見に行く。少し遠くからでもテントの存在が異様だった。とんでもない熱量がどこに向かっているのかわからないのだが、とにかく興奮した。こんなものは初めて観た。舞台上で炎は上がっているし、水しぶきも半端ではない、その中で舞踏家が美しくゆっくり進んで行く。すっかり虜になり、次作、次々作と音楽を担当し、これも現在まで至っている。その舞踏家の岩名雅記さんとはその後何度かデュオでライヴをした。しかし数年前に亡くなってしまった。そして野戦の月初期の看板女優だった香乃カノ子さんはつい先日逝ってしまった。
 次作’95年の「バンブーアーク」も凄かった。中野駅近くの線路沿い北側に竹製のテントを建てたのだ。もちろん電車からはよく見え、その周りの幟とともにパッと見ただけでも異空間だった。こういう謎のワクワク感は子供の頃は珍しくはなかったのだが、もう車窓から見えただけでそこにたどり着きたい気持ちが高まった。会場に着くと美智子さんに松永孝義さんを紹介された。松永さんとはそれ以前に音源上では共演していたが、会うのは初めてだった。ただ開演前で芝居のことが気になっていたので、挨拶もそこそこだった。その後大分経って松永さんにその時のことを指摘され、笑い話と化した。この時の音源はほぼ全て新録だったというのが、気になりすぎていた原因だが、これは後にCD化された、
 だが、現在、簡単に聴くことができる野戦の月楽団の音源は2000年代に入ってからの以下。この後の音源もそこそこ溜まってきたので、そろそろ発表も考えるべきだろう。

 台本集もある。

 そして、美智子さんも既に鬼籍に入っている。

 国立の街を通ると、そのようなことを一遍に思い出す。昔話ばかりになってしまう。
 そうだ、最近はご無沙汰しているが、落ち着いた酒場でもある音楽茶屋・奏ではよくライヴをしていた。

 シカラムータのヨーロッパツアーでお世話になったサックス奏者のアド・ペイネンブルグさんとの奏でのデュオ。

 2020年1月のぎりぎりコロナ禍直前に「JAGATARAなきJAGATARA」以来二度目のJAGATARAの名がつくライヴに参加した。JAGATARA2020。その渋谷クラブ・クアトロの楽屋で自分のギターを弾いていたら、「良いテレキャスターですね。」と声をかけられた。文字だと標準語で音読してしまうが、明らかに九州弁しかも博多の言葉らしく聞こえた。(母親の実家の佐賀には幼少から二十歳過ぎまでよく訪れていたので、この地の方言の地域性はそれなりには察知がつく。)そのかたの本番を終えた黒のレスポールはギター雑誌の写真で見たものより、味わい深く年季の入ったものだった。私の中ではロリー・ギャラガーのストラトキャスター以上だ。そして昨年、私がレッスンを行っている吉祥寺エアガレージで偶然お会いし、声をかけ挨拶した。ギターアンプのマーシャルの修理に来たとのことだった。JAGATARA2020の際の全員でのアンコールの場面で一緒にギターを弾いたかどうかは覚えていない。
 JAGATARA2020はその後フェス等いろいろスケジュールが入っていたのだが、全てコロナ禍でキャンセルとなった。


 また、このかたは伴奏を一曲務めさせてもらったが、よろしくおねがいします、と、お疲れ様でした、だけであるのは、まあこういうコンサートなので仕方がない。スマートに格好良かったことは言うまでもない。
 最近はすっかりこういうリズム・ギターを弾く機会が少なくなった。(2006年3月 於 渋谷AX)

 昨年の12月、篠田昌已没後三十年のイベントがあった。コロナ禍で幾人かの急遽欠席があったが、私は参加することができた。三十年も経っているので、死者のために奏でるということではない。ただ、演奏が終わると、これは自分が死にゆく為に奏でていたのかもしれない、と感じた。

 当たり前だが、人間は必ず死ぬ。私だって死への恐怖はもちろんあるが、ここ十年くらいでそれは少し薄らいできたかもしれない、とも思う。人それぞれであろうが、私は死んでしまったら忘れ去られたい。ただ、残念なことに、あるいは他者にとっては幸運なことに作品は残ってしまう。だが残った作品を愛でてくれる方がいたとしたら、それは嬉しいことだ。自宅という酒場で静かに飲んでいると、そんなことも呟いてしまうわけだが、これは遺書の一部ではない。
 三十数年前の方々に限らず、ここ数年でも周りの方が居なくなってしまった。皆さん、草葉の陰でネタにしやがって、と笑っていることを願おう。

桜井芳樹(さくらい よしき)
音楽家/ギタリスト、アレンジやプロデュース。ロンサム・ストリングス、ホープ&マッカラーズ主宰。他にいろいろ。
official website: http://skri.blog01.linkclub.jp/
twitter: https://twitter.com/sakuraiyoshiki

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