国立(中編)
前回冒頭の信号待ちから国立駅南口ロータリーまでの間に、前述のFやS、そしてTさん、Oさんとのことが過ぎて行った。思い出の連鎖反応の時間は短い。その記憶は一瞬の断片が鮮明となり、駅舎に向かって左側の都市銀行の建物は当時と同じレンガ風の作りで、四十年近く前の国立からの帰路にここで私がOさんの写真を撮ったことも思い出した。写真を撮る趣味はないのだが、当時父親から一眼レフを譲り受け、一時少しだけ興味を持っていた。同じ頃にSのステージ写真を吉祥寺のライヴハウスで頼まれた覚えもある。
ロータリーの手前には、今は建物が新しくなった増田書店。此処の地下階はみすず書房の本が揃っていて、もちろん何冊も買ったし、立ち読みもした。加えてその南には紀伊国屋。懐に余裕がある時には、妻とよく買い物をした。
車はロータリーを半周し、駅北側へ向かう。今はほぼ線路際に移ったが、かつてはガードをくぐる右側に「まっちゃん」という酒場があった。当時はたしか女性だけでは入店できなかった、という店だったが、移転してからは暖簾をくぐっていないので、知らない。そう何度も入った訳ではないがとにかく静かな店で、国立にいることすら忘れさせた。私が酒場というものに深く興味を持つきっかけの一つの店だ。中央線を潜る道路は拡張されたが、そのガードを超えたあたりの「うなちゃん」は同じ場所で同じ佇まいで今も健在の様子だ。道路拡張の際に建物ごと移動したのだろう。ここは鰻なので安価では飲めないが、カウンターに座ることにすごく贅沢を感じた店だった。
さて、前回のキーワード「じゃがたら」「パンゴ」「クレツマー」「ぶどう園アパート」だが、奇しくもこれを書いている今日はじゃがたらの江戸アケミさんの命日だ。私がじゃがたらをライヴで観たのは、ほんの数回の片手で数えられるほどだ。だから当然アケミさんとは会っていない。ところが実は電話で少しだけ話したことがある。当時私がメンバーだったバンド、ブラックマーケットのCDを聴いたらしく、電話をくれたのだ。これがまた面白く、アケミさんが開口一番「ギターを弾いて欲しいんです。」と来た。はい、と返答すると、「いや俺のバンドじゃなくて、友達のバンドなんだ。でもこれがいいんだ。また、電話するね、知らない奴ばかりで不安だったら、俺も行くから。」と、まあそんな短い会話だった。俺も行くから、と言われても、私はアケミさんに会ったことは無いのだ。そしてその1~2週間後、ブラックマーケットのリーダーのアキラKさんから、アケミさんの訃報を聞いた。ちなみにこのブラックマーケットのアルバム『モナリザのドープ』はメンバーで現栗コーダーカルテット他の川口隊長も名を連ねているし、じゃがたらのEBBYさん、現バッファロー・ドーターの大野由美子さん、フィッシュマンズの故・佐藤伸治さん等々、ゲスト参加の1989年の作品である。
そして先程の4つのキーワードはもちろん篠田昌已さんに直結する。当時私はブラックマーケットと並行してミスタークリスマスというバンドに参加していたのだが、そこに篠田さんはやってきた。このミスタークリスマスというバンド、’88年デビューCDを発表した当初はXTCインフルエンスとも言える捻くれたポップな音楽性だったが、1990年になる頃にはアフロ的な方向にシフトした。メンバーも増え、’90年の新宿シアターモリエールでのコンサートが初めて篠田さんに会った時だったので、彼との付き合いは晩年の2年ほどしかない。その時の新宿のコンサートで篠田さんは飛び入り的に参加し、その数日後の池袋西武百貨店の納品所でのコンサート(カメルーンのレ・テット・ブリューレ来日公演の前座。暗い納品所にステージを作って行われた。今ではあまり考えられない、すごい場所でのライヴだった、と記憶する。)も観に来られ、その後軽く一緒に飲んだ。話をするのはその時がほぼ初めてだったのだが、随分と色々なことを丁寧に聞かれた。たとえば、どのような活動をして今に至ったのか、みたいなことである。その翌年、篠田さんはバンドに参加することになり、関島岳郎さんを連れてきた。
1991年、メンバーがかなり変わったが、ミスタークリスマスを名乗る前に松浦ユニットとして集まった四人は残っていた。リーダーでヴォーカリストのマツウラヨシタカさん(ちなみに私はマツウラの曲がいまだに大好きでクレイジーケンバンドを耳にすると、彼を思い出す。)はもちろんだが、私が高校生の時から知っている先輩、元ビブラストーンの横銭ユージさん(ドラムス)、その後数々の現場でお世話になる現COLDFEETのWATUSIさん(ベース)、と私である。記憶は定かでは無いが、その四人だけで二度ほどライヴをやり、メンバーも増え、ミスタークリスマスとなった。増えたメンバーには、川口隊長もいた。1993年の発表された2ndアルバムの録音メンバーはほぼ ’91年に集まっていたような記憶がある。ホーンセクションは川口、篠田、関島、そしてトランペットにYOKANさん、キーボードはエマーソン北村さん、となった。
皆忙しい日々だったが、メンバーチェンジがあったのでリハーサルは少なくはなかった。あるリハーサルの時、曲が終わった瞬間に篠田さんが目を丸くして私を見ていた。休憩時に話をしたら、「どうやったらあんな音になるのか、みたいなことを考えちゃったんですよ。」と笑いながら言い、今度僕と何かやってください、と付け足された。その頃から都合がつけば、コンポステラの吉祥寺マンダラ2でのライヴは観に行っていたので、終演後、話をする機会も増え、リハーサル時の会話の続きで、「この間、言ったことなんだけど、ひとまず僕とデュオをやって下さい。」と言われた。しかし私に何ができるのだろうか、という考えが過ぎり、音楽的にちょっと考えてみます、と答えた。おそらく篠田さんは、もっとシンプルでとにかく音を出そうよ、みたいな感じだったが、私は当時アコースティック・ギターでブリティッシュ・トラッド的なソロ演奏を結構練習していて、なにかそういうことが出来ないものかと考えていたのだ。なので、デモテープを作ることにしたのだが、録音しては、これでいいのか、みたいな疑問が常にあり、なかなか進まない。’92年になると、私も色々なところから声がかかるようになり、そこそこ忙しかったというのは、まあ言い訳だな。
1992年3月のミスタークリスマス@渋谷クアトロでのライヴ映像。「星屑の彼方」という曲だが、このテイクが2ndアルバムに収められている。
多分、このライヴの後、春から初夏だったと思う、じゃがたらのベーシスト渡辺さん(通称ナベちゃん)の追悼ライブに参加したことがあった。私はナベちゃんとは直接の面識はなかったが、彼が山下太郎さん(ヴォーカル、ギター)と共に、慰問をすることを目的というか、何というか、そういうバンドを組んでいた。名はイモーンズと言った。私はナベちゃん没後にそのバンドにゲスト的に参加し、その追悼ライブで演奏したのだ。その時、本番直前に篠田さんがやってきて、「トリのフールズに3分くれ、と言ったら、OKだから、桜井くん、この曲を一緒にやろう。」と言われた。譜面は「同志はたおれぬ」。イモーンズの演奏直後にすかさず奏でたが、その時の篠田さんのすごい音色は焼き付いている。後にも先にも私が篠田さんと人前でデュオを披露したのはこの時だけだ。(これはどこかに映像があったのだが、探し出せていない)色々思い出したが、この時私は自分のハイワットのアンプでスピーカーキャビネットはFANEの12インチ×4のギターアンプを使っていた。そのリハーサルを見ていたフールズの川田良さんが「店のマーシャルより良いじゃねーか、今日使わしてくれ。」と言ってきた。もちろんお貸ししたが、ライヴ終了後、アンプは壊れてはいなかったが、酒にまみれていた。良さんとはそれからよく飲んだ。イモーンズのリハーサルに結構遊びに来て、その後は酒盛りだった。メンバーの部屋で飲むことが多かったので、私が何気なくアコースティック・ギターを弾いていると、良さんが、「桜井、今どうやって弾いたんだ。」と聞いてきて、これこれ、と再度弾くと、そのギターを取り上げて、よし覚えた、と言って笑っていた。その後、良さんに観にこい、と誘われたジャジーアッパーカットのライヴには心底打ちのめされた。
話は並行し、その頃。コンポステラのライヴによく通っていたわけだが、終演後、篠田さんがこんなことを言った。たまたま列席していただけなのだが、私の隣にはペダル・スティール奏者の駒沢裕城さんが座っていた。このちょっと前に観に行ったくじら・ドラゴン・オーケストラのライヴで篠田さんから駒沢さんを紹介され、ペダル・スティールに興味を持っていた私にチューニングとレバーの操作を丁寧にメモを書いてくれた。今では私がペダル・スティールを弾くことはまず無いが、もし弾かなければならない場合、この時のメモを引っ張り出すだろう。
そして駒沢さんの反対隣には千野秀一さんが座っていた。その時は私なんぞが話しかけられる方では無いのだが、そこに篠田さんがやってきて、「あれ、この三人が並んでいる、実はね、この三人と僕とでバンドを組みたいんですよ。」と言った。私は恐れ多くて何も言えなかったが、篠田さんのやりたいことは実現しようとする純粋な気持ちだと察知した。その時はそれは悪い方には全く思っていなかったのだが。
その後、駒沢さんとはリングリンクスでご一緒し(私はサポートというか補欠だな。)リハーサルが終わってよく説教された。もちろん半分笑い、半分は真だったと感じていた。
私の篠田さんに対するデモテープはなかなか進んでいなかったその夏、篠田、関島、桜井で流山児事務所の劇伴の録音をした。その時が今やチンドンのスタンダードとも言えるコンサルタント・マーチの初録音だった。芝居の中でコンサルタント役の人物が登場するときのテーマ曲みたいなものだ。その時のカセットテープを実は最近発見した。録音は’92年8月17日、スタジオは阿佐ヶ谷スペースベリオ。エンジニアはその後大変お世話になる坂井利徳さん。聴き直してみたら、篠田さんのおそらくこの時しか演奏していないのでは無いか、という美しい小品が2曲あった。機会があったら、演奏しようと思う。
その録音がヒントになって、私のデモテープは一応渡せるだけのものにはなった。奏法をもっとシンプルにしたわけだが、それに気づくのに時間がかかった。ソロ演奏でコンサルタント・マーチも録音し、渡すことが出来、じゃあデュオで音合わせしてみよう、という矢先に篠田さんは逝ってしまった。おそらく生前最後となったマンダラ2での(その時のブッキング名は失念したが、後のラブジョイ。)ライヴは観に行ったのだが、あまりに混雑していて、挨拶すらできなかったのは、後悔ではあった。
(後編へ続く)
midizineは限られたリソースの中で、記事の制作を続けています。よろしければサポートいただけると幸いです。