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泡に手を伸ばす

 金柑色のお湯に浸かりながら、トロトロの柔らかくて白い泡を両腕で掻き集めては壊す。二時間前、ラーメン屋で左隣のカウンターに座っていた名前も知らない男が連れの男にこぼしていた「あの時抱いておけばよかった」の意味をふと考えてみる。その言葉の感覚が理解できないのは、私が女だからだろうか。「あの時抱いておけばよかった」を、「あの時抱かれていればよかった」としてみるなら?それならば、何となくわかる。「あの時抱かれなければよかった」ならば更にわかる気がする。わかるけれど、わかったとしても得な感情でないように思う。

 そもそも「抱く」「抱かれる」というのが好きじゃない。好きになった人ならば、もれなく私から抱きしめたいから。つぶれるくらいに抱きしめて、そのまま泡みたいに消えてしまいたい。そんなことできるはずもないけれど、人を好きになった時は必ず思う。誰か私と消えてくれませんか。

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 気温四度の冬の夜のこと、当時思いを寄せていた人から告白を受けた。とても幸福で、何故だかそれと同じくらい寂しかったのを覚えている。

 いつか離れることが決まっていた人だった。相手からの好意にも、自分の気持ちにも気づいていたけれど、生きてきた場所も、これから生きる場所も、きっと違う人だった。その時そのタイミングで、生きるポイントが偶然重なっただけであることを互いに知っていた。

 大人だから、物分かりは良くなっていた筈だ。十代の頃に比べると賢明な判断も下すことができるようになっていたに違いないし、後先考えずに突っ走るのが危ないことであるとも理解していた。だから、好きだと言えなかった。私を大切にしてくれる人を、自分の勝手な生き方に巻き込むわけにはいかないと思った。私はずっと根無草だった。住む場所・生きる場所を定期的に変えないと息ができなくなるような質だった。時々、誰も自分のことを知らない街に行きたくなった。誰と居てもひとりぼっちだと心細く感じると同時に、一人で居る自由さに喜びを感じていた。

「君は必要とされているから、仕事、やめないほうがいいと思う」その言葉に勢いよく首を振ったら、遠心力で溜まっていた涙が振り飛んだ。その人は私の涙を拭わなかった。ただ、涙の落ちる先を見て、そしてふわりと私の手を掴んだ。握られた手を強く握り返した。少し冷えていて、それまで触れた中でいちばん大きなてのひらだった。ああ、好きだ。てのひらから心臓に温度が通って体温が上がるのを感じた。

 生まれて三十年、ずっとこの街で生きてきた人。たった数年しか住んでいないこの街に、既に少しずつ飽き始めていた私。この街は俺の庭だと笑い、昔からの仲間を大切にしてきた人。どの街に行ってもどこか他人の顔で歩くしかない私。

 今、近くにいること。今、いちばん大切にしたい人。それでも必ず離れると決まっている人。好き、好き、好き、でもきっとその「好き」は、根無草が抱える理想と憧れでしかないのでしょう。私もあなたみたいになりたかった。私も根をはって咲きたかった。私も裏切らないと確信を持てる私自身が欲しかった。とんだ強欲だ。欲しい欲しい欲しいばかりで、好き好き好きばかりで、私の中は本当は空っぽだった。美しいものでも多過ぎれば毒だ。好き、好き、好き、好き、強欲な私の身体中に毒が回っていた。

 結果、私は掴めなかった。強欲だった私だけど、どこまでも自分がいちばんかわいかったのだ。その人を抱き締めるだけの覚悟がどうしても持てなかったのだ。何より自分に自信がなかった。私が最も恐れていたのは、私自身の裏切りだったのだ。


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 お湯、四十二度。何度も泡を掻き集める。あの時あなたを抱き締めたらどんなふうだったろうか。腕の中にあるのは人の形をした寂しさだっただろうか。いつか離れる。でも夢見ていたい。愛されて優しくされて大切にされるのは幸せだった。けれどきっと目は覚める。あなたの告白に対して私は何と答えるのが正解だったのだろうか。

 掻き集めて壊した泡が散らばる。きれい。ふっと息を吐いて両腕を湯の中に落とす。ああ、そっか。もしかして、あの時あなたに抱かれておけばよかったのか。

 いつかは一人になると理解している筈なのに、今一人になることが怖いと思うのは何故だろう。それなのに誰とも少し先の約束さえできないのは何故だろう。「自由な人ほど不自由」と言うけれど、その言葉の意味は考えたくない。私は今も根無草。きっと性格は簡単には変えられない。自分の裏切りに怯えているのも昔と同じ。だけど、今の私ならば、好きな人が目の前に居れば絶対に手を伸ばすだろう。今の私ならきっとそうする。そうできる。そうしたい。掴めなかったものほど後から心惜しく感じるものはないのよ。私、それはそれは強欲だから。もう一つふっと息を吐いて、浴槽に浸かったまま、バスタブの栓を抜いた。泡が渦巻きながら流れていく。さっきまで綺麗だったものも、流れてしまえば綺麗じゃなくなる。それなら今の私がいちばん綺麗だと思うものに手を伸ばせばいい。頼りなくても不確かでも、掴んでいたい。









ゆっくりしていってね