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5年前の自分へ、何も変わってないよ


半歩先も見えなくて毎日不安な大学生をしていた、5年前の自分へ。

26歳になった私が、どれくらい成長していると思いますか。26歳になった私は、どのくらい大人になって、どのくらい出来ることが増えて、どのくらい成功して、どのくらい賢くなっていると思いますか。



答えは、何も変わってない。

私は何も変わっていないから、私のままで生きているから、どうか安心してほしい。5年前の私が焦らなくても、結局私はなにも成し遂げていないし、思い描いていた大人にもなっていないし、26歳だったらもしかしたらしているかもしれないなって思っていた結婚も出産もしていない。今頃、東京で暮らしていると思った?残念、それも叶っていない。東京オリンピックに合わせて関東へ行くという計画も計画だけで、しかも驚くかもしれないけれど、東京オリンピックは今年開催されなかったんだよ。自分は何のために宿泊業に就いたんだって思うかもしれないね、でもこれが今の私だよ。


ちゃんとした大人になるのだと思っていた。大人になれば自分の信念を持って何かをやり遂げ、誰かの役に立ち、自分のメンタルを保つことに長けていて、他人を受け止める器が育っていて、夢のひとつやふたつ叶えて、いつも何かに向かって走っていると思っていた。それが、私の「ちゃんとした大人像」だった。その「ちゃんとした大人」になる年に近付いてきているのにずっと幼いままの自分に、私はいつも不安を覚えていた。


でも、心配しないで欲しい。26歳の私も、5年前と変わらず悩んだり迷ったり、余計なことを言ってしまって数秒後に反省したり、自分のやりたいことって何だっけ?って分からなくなったりしている。全然、変わっていない。5年くらいじゃ、人は変わらない。

5年前の自分も、相変わらず路頭に迷っていた。私は人生の大半をふらふらしていたから、驚くことではないけれど。大学から先の道が全く想像できなくなっていた。大学を受験するときには、やりたいことがちゃんとあったはずなのに、なぜ大学に入ったのかも、なぜ大学で勉強しているのかも分からなくなっていた。

高校生の頃から、自分が平凡で、そこそこの努力ができて、ちょうどよく無個性、人並みに環境に適応できる、そういう、「社会の歯車」に持ってこいの性格だと知っていた。当たり障りのない受け答えをして、大きな問題も起こさない、クラスの手がかからない生徒の代表例、自分からは動かないけれど、やれと言われたら意外とそつなくこなす。小さいグループならばちょっと頑張ればまとめられる、でもそれだけだった。自分がそんな「ちょうどよくどうでもいい」存在になりえることを知っていた。だから、この先ふつうに、ごくふつうに歩んでいっても、ごくふつうに生きていける気がしていた。

でも、それが心の底から悲しかった。「自分にはなにもない」毎日を繰り返して生きていくことが、なんだかむなしかった。

そんなの、甘えた考えだと思う。恵まれた考えだと思う。ぬくぬくと育ってきたから言えることだと思う。自分で出す結論はいつもそこに行きついた。「私は甘えている」。嫌いだった。そんな自分が。

ずっと知りたかった。何故だろうと思っていた。どうして欲しい人の手には渡らなくって、要らない人の手にばかり渡っていくのだろう。私のコンプレックスである「存在感のなさ」「物足りなさ」「存在の手頃さ」をうらやましがる人がいるのは、どうしてだろう。

「食べたくても食べられない子どもがいるんだよ」「生きたくても生きられなかった人がいるんだよ」そんな言葉を何度も耳にして、どうしてそんな世界になったのだろうと思っていた。じゃあ、その「食べたくても食べられない子ども」「生きたくても生きられなかった人」に会いに行きたいと思った。どうして?の答えは、いつだって自分の目で確認したい。ずっとそう思っていた。ある夏、偶然『僕たちは世界を変えることができない』を観た。それを観たことで、それまでの「どうして?」が爆発して、その秋、カンボジアへ足を運んだ。

結局、「なにもない」なりに、「なにかほしい」と思っていたのだと思う。「世界はかわらない」と分かっていても「世界がかわるかもしれないきっかけ」の欠片を見てみたかったのだと思う。「偽善」だと言われても、「偽善じゃない」なにかを知りたかったのだと思う。



誰かの力で簡単に世界が変わってたまるもんか。今でも、そう思う。気持ちと裏腹に動いていく現実のことを、人並みか人並みより少し多くは学んだと思っている。だから、簡単に「貧しい子どもたちのために○○をした(実際には箱を与えただけだとしても)からあの人は世界を変えた」と言う人も、それが称賛されているのも、見ていて苦しくなる時がある。小さな積み重ねをしている人も、言わないだけでこっそり支援をしている人もたくさんいる。友達がアルバイトしていたコンビニで、必ずおつりの小銭を募金箱に入れる男子高校生がいたそうだ。そういう話を聞く方がよっぽど心が動く。でも、いちばん何も言う資格がないのは、何も考えず、何もしていない人だと、私は思う。


世界は、簡単に変わらないよ。5年前の自分もそれは知っているだろうけど。いまでも、そうだよ。変わらない。

でも、人の言葉で簡単に誰かの人生が狂う。そのことも、5年前の自分も既に知ってるよね。いまでも、そうだよ。変わらない。



5年前の私へ。私は、自分の無力さを知っている。5年前よりも深く理解している。じゅうぶんに知っている。誰かの「役にたちたい」とは思うけれど、何かを「してあげる」とは思わないようにしているのは、5年前と変わらないよ。ただ、前よりもっと、臆病になった。自分で出来ることが増えてきて、自分がしようとしていることが、自分ができることが、「役にたつこと」なのか、「ありがた迷惑になりえること」なのか、迷ってしまうことがある。支援とか、協力とか、そういうことを学んで、「誰かのためを思ってやったこと」全てがプラスになるとは限らないと痛いほど知ってしまった。今、「言葉」を、それに当てはめて悩むことが多いよ。その言葉で、誰を動かして、誰を傷つける?誰かのために発した一言が、違う誰かを殴ってしまう。

私たちは簡単に世界を変えることはできないのに、簡単に他人の心をひっくり返してしまう「言葉」を皆が持つ。あれから5年たっても、私は言葉をまだまだうまく使いこなせない。私の書く文は、相変わらず次の日の朝には私を裏切っている。私の紡ぐことばは、まだ全然私の「理想の」ことばではない。


5年前の私へ。あれから大好きな街を去り、私は3回の引っ越しをした。
小さい目標、少しだけ大きな目標がいくつか叶った。
信頼できる人にも出会えたし、新しい場所に知り合いもできた。
世界は、少しずつ変わっていって、きっと、まえに訪れたカンボジアのあの村にも学校ができただろう。


大丈夫、私は変わっていないし、相変わらずないものねだりだよ。分からないことだらけで、知らないことだらけで、いつか自分の目で確かめたい「どうして?」がたくさんある。

ないものねだりの自分でいられるうちは、私はずっと私でいられるよ。
変わろうともがいてる私はずっとそのまま。
変わらないから、安心してよ。

私は26歳になることができて良かったよ。だから、5年前の自分、そんなに不安に思わないでよ。いまの私は何故だか、5年後の自分も、「31歳になることができて良かったよ」と言っている気がするんだ。

だから、安心して。待ってるよ。








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