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君について覚えていること


君の爪はいつも綺麗に切り揃えられていた。きっと丁寧に磨いていたのだろう、君の爪は私のそれよりずっと艶があった。

君の部屋はいつもそれなりに片付いていた。長めの髪の毛が落ちていたことは一度もなかったし歯ブラシも一本だけだったけれど、洗面所にはコンタクト液があった。君の視力は1.5だと、いつか自慢されたことがある。

君と私は友達といえるほど近くはなくて、でも知り合いと呼ぶよりも少しだけ密度が高い、そんな関係だった。よく目が合う日もあれば、全く目が合わない日もあった。互いが好き勝手に生きていて、好き勝手に生きている相手に執着していた。

たしか誕生日は6月で、たしか血液型はOで、たしか好きな食べ物はカレーのそこまで辛くないやつ。そんな曖昧な情報しか知らなくて、好きな音楽や映画や本のことは全く知らなかった。でも、好きなコードがB♭で、好きな色は浅葱色だということだけはずっと忘れられなかった。それを聞いた時、ああとても似合うと思ったから。君を季節にするのなら絶対に初夏だと思う。だから、毎年5月頃になるといつも君のことを考える。

覚えていることと、忘れられないことは、似ているようで全く別のもの。

例えば君の部屋のこと、なんとなくだけど思い出せる。ソファの位置とかカーテンの色とか、覚えてはいる。今は。これらはいつか消える記憶だ。
でも、コンタクト液のあの悪意のある配置だけは忘れられない。ボトルにあと3センチくらい残ったコンタクト専用液。君が視力が良いって知っている人だけが疑えて、場合によっては傷つくことができる、人を選別する品物。メイク落としや口紅のようにチープな悪意じゃない。きっとこの配置主は、私のことを知っていた。そしておそらく、疑っていた。

なにもなかったよ。ほんとだよ。

信じてもらえないかもしれないけれど、君と私は初夏のように爽やかな間柄で、家に上がれど適当な話をダラダラと続けて、ベランダで星をみたりレビューで酷評されている映画ばかり観たりした。それだけだった。


君に執着していた。私はとても自分のない人間で、前日に何を食べたかも思い出せなければ、数日前に誰の家に泊まって誰にサイテーと怒鳴られ誰に泣きつかれ誰と一緒に眠ったのかも思い出せない奴だった。いつだってその瞬間に自分に最高点をつけてくれる人を選ぶ、ゲームみたいな生活だった。君がどんな生活をおくってどんな恋愛をしていたか知らないけれど、君は私に最初から点数をつけなかったし、そもそもそこまで私に興味を持っていなかった。だから良かった。なんとなく一緒にいれば楽で安心した。君といれば自分の点数なんて気にならなかった。


本当は、君みたいな人にちゃんと愛されてみたかった。君みたいな人とまじめに恋愛してみたかった。
でも踏み込むのはこわくて進むのはやめた。
君に恋人がいるのも分かっていた。君の恋人が私をよく思っていないのも。それでも君は私を私として扱ってくれていることも。それってつまり、私は恋人とはまったく別の位置にいる存在だってことも。理解していた。

かみさま、みたいだった。お互いに、お互いが。その人がいるだけで自分の存在を認められる、すがる対象が欲しかっただけ。それが恋なのか愛なのか依存なのか、決めるのは自分たち次第。君とは四年前の初夏を最後に会っていない。きっとどこかでひっそり暮らしているのだろう。私は前より少しまともに人と向き合っている。


いま覚えていることはじきに忘れるのだろう。
でも、忘れられないことは、忘れたくても残るのだろう。浅い水溜まりを踏んでしまった時みたいに、なんとなく落ちて濡れて、それがずっと乾かない。

B♭と、浅葱色。5月も終わろうとしていた夜のベランダ。遠くで救急車の音。星を見ていた横顔が、不意に私の方を向いたこと。一瞬だけ頬に触れた唇。かみさまじゃなくて恋だったのだと自覚した。四年前のこと。









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