生きるって「ちょっとも思い出さない」実在する君の連続だって
「ちょっと思い出しただけ」を観て、心を動かしたくないと思う強情な自分がいる。映画のワンシーンワンシーンがどこかで自分も経験しているシーンのような気がして、でも、冷静になって振り返った時にそんなシーンひとつも無かったようにも思える。「女の恋は上書き保存」とはよく言ったものだ。上書きをすることは、完全に消し去ることとは違うけれど、無かったみたいにできてしまうから不思議。きっと「本当は知っているけれど、ちょっとも思い出さない」人ばかりが増えているのだと思う。
「時間が解決する」なんて、嘘だと思っていた時期があった。もう恋愛はしないだろうな・できないだろうなと諦めていた時期もあった。こんな風に二人しか知らない会話が増えると後になって引きずりそうだなと踏み込むのを恐れたこともあった。でも、全て過去。過去の続きを歩く今が、いちばん大事にしなければならないものだ。いちばん大事にしている今がどんどん過去になって、「いちばん大事にしていた時間」が増えてゆく。それで、多分いいのだ。最後に誰の隣にいるかは、最終的に誰と一緒に歩いてゆくのかは、私ひとりでは決められないのだよなと最近考えるようになった。運、タイミング、偶然、そのときの気分。相手がいるというのは、そういうことだと思う。
人生、タイミング。それを教えてくれたのは、確かいつか死ぬほど好きだった人で、今は「ちょっとも思い出さない」人。思い出してみてと言われても、すぐには思い出せない人。年々、私の中の「エモ」が薄れてゆく。淡くて綺麗な色をしていた思い出も、水彩画みたいな気持ちでいられた恋も、ときめきも、嫉妬みたいな感情さえ減ってゆく。代わりに現実や焦りはどんどん迫ってくる。もう私は、恋愛に夢なんてみていない。でも、あった。確かにあった。この映画のような過去が、きちんとあった。それだけだ。今は、大人みたいな顔して、そう言える。「そういうこともあった気がするね、ちょっと思い出しただけだよ」って。
今夜は星も出ていない。アパートの一階から眺める細い月。結局映画を二回観た。皆、この映画を観てどんな感想を持つのだろうなと思った。聞いてみたい、いや、別に聞きたくない。それぞれがそれぞれの「ちょっと思い出しただけ」を持っているのだろう、それで良い。私の感傷、あなたの感傷、それは見せ合わなくて良い、知らなくて良い、ずっと個々の心の中にしまっておけば良い。「ちょっと思い出す」夜がいつか巡ってくるまで、それまで大切にしまって忘れておけば良い。
正直、二回映画を観た割にはうまい感想が出てこない。伊藤沙莉さんがとても良かったなあと思う。そんな、誰にでも言える感想しか言えない。思っていたよりも感傷に浸りそうにもない。無くしたもの・過ぎ去ってしまったもの・手放したものたちを、今は掘り起こそうという気にもなれない。
関係が切れるのは一瞬だ。大人でも子供でも偉い人でも学生でも、それは皆平等だ。本当にあっけない。終わりです、と告げると本当に終わる。人間関係ってすごいシステムだ。
本当に大好きな人がいた過去がある。運良くその人と時間を共有できた。関係を深めて、二人だけの思い出も二人の間でしか伝わらない言葉もたくさんできた。でも、終わりはとてもあっけなかった。へえ、そういうものなんだなと思った。そして、ある程度の時間が経って、その人とのことも、その時の自分の気持ちも、思い出すことはなくなった。
ヘラヘラと中途半端に欲しい言葉をくれて、でも本心が分からなくって、誰にでも同じように心をつかむ言葉を与えて、好きなことに打ち込める才能があって、人を惹きつける謎の魅力があって、飄々としながら大事なことなんて言わないのに皆に好かれている人。そんな人の彼女になることができて私は世界一幸運だと思っていた。雨の高速を走っている途中にガソリンのEマークがついて、焦ってふたりで24時間オープンのガソリンスタンドを検索した夜。淡麗グリーンラベルを飲みながらマリオカートをした夜。自転車を押しながら並んで帰った時に来ていたピンクのTシャツ。冬に着ていた黄色のロゴが入っている古着の紺色スウェット。手書きの年賀状を書いてくれて、そこに描いてあったネズミの絵が思いのほか上手で笑ってしまったこと。彼がトイレに行っている間にカーテンに隠れてみたら姿を消したことに想像以上に不安がっていて、その後カーテンからぬっと出ていったらびっくり&爆笑されたこと。スマホの待ち受けが謎に色鮮やかな野菜の盛り合わせの写真だったこと。お酒でベロベロになったときに飲むいろはすのこと、「べろはす」って呼んでいたこと。ほら、ちゃんと蓋をあけてみたらくだらないことばかりたくさん覚えている。でもこれは、過去のことで、今の私の日常には必要がなくて、こうやって思い出さないと無かったことみたいになっていること。普段は「ちょっとも思い出さない」こと。
生きるって、恋愛をするって、「ちょっとも思い出さない」人が増えていくということかもしれない。いなかったことにはならない、無かったことにはならない、実在していた人。その人と育んだ日々。でも、それを無かったみたいにして、過去は過去のこととして、きっとみんな生きている。あなたの感傷、私の感傷、それぞれが必ず持っている。見せ合わなくて良い感傷、一生知らなくて良い感傷。心の中だけにとどめて、たまに一人で明け方の空を見上げるくらいにしていよう。
そういえば、一緒に明け方の空を見たよね。うるさい首都高の下で。少し涼しくて曇っていた午前五時。この人とずっと一緒にいるんだろうなって、なんとなく思っていた。え?ちょっと思い出しただけ。