感傷なんてもんじゃないけど
え?意外。二人は結婚するんだと思ってた。
午前二時、どこからか降ってきた声に抗うように、ニラを切る。ニラを切るのに必要ないくらいの力を込めて。ざく、ざく、ひとつに束ねられていても、ほら、いずれはバラバラじゃない。結局そうなんだよ。
ニラを切り終えて、玉葱の皮を剥く。鼻の奥がツンとする。持っているエネルギー全てを包丁を持つ右手に集中させて、玉葱を切る。ざく、ざく、五回ほど包丁をおろしたところでじわじわと涙が溢れる。ひとつを切り終える頃には、涙は頬を伝ってぼとぼととまな板にまで落ちていた。しょっぱい。「しょっぱい涙」なんて言うけれど、本当に涙はしょっぱい。私の涙もしょっぱかったんだ。しょっぱくて良かった。人と同じ温度の涙を流せて良かった。
そうだね、私も結婚すると思ってたよ。しなかったけど。
手早くボウルに切った野菜を放り込みながら、さっきの声に心の中で答える。結果だけが残った。私だけが残った。そがんこと言っとる暇あるんならさっさとマッチングアプリに登録すればよかやん。あっと思った時には既に口から出てしまっていた言葉。もう登録したよ、という落ち着いたトーンの声がいちばん心臓にこたえた。最後はお互い血だらけで、二人とも持っている武器がなかった。出来る限りの言葉で傷つけ尽くした。あんなに好きだったのに。
自分史上最大の失恋をしたはずなのに、私は当たり前のように生きて、生活をして、食べて、眠って、笑っている。こんな夜中にチヂミを焼くパワーだってある。
大人って、こんなに簡単にくっついたり離れたりしないものだと思っていた。大人だから。大人だから。もっと大人らしく、上手にやっていくのだと思っていた。でも、全然そんなことなかった。大人でも子どもでも誰でも、恋の始まりと終わりは似たようなものなのだ。今まで知らなかった。
終わったことは仕方ないよ、それよりさ。
またどこからかやってくる声。数日前に会った人の声で再生された。あの人、あなたのことずっと好きだったらしいよ。
タイミング良く入ってくる情報、なんて私も都合が良いのだろう。天秤にかけられないものを天秤にかけてしまいそうになっている。同じ時間に同じ場所になかったものを比べたところで何も生まれるはずがないのに。
世界の色んなところに行ってみたい、家を持たずに暮らしてみたい、犬と暮らしたい。私の夢に何度も顔をしかめた人と、いいねと笑ってくれた人。こんな良いことがあったよ、褒められたよ、仕事で成功したよ。私の喜びに寂しそうな顔をした人と、良かったねと喜んでくれた人。いつでも戻って来なよ、地元には戻らないって思いながらも、その言葉になんとなく支えられて生きてしまっていた。ほら、そう言えばずっと優しかった。知ってた。そのくらい。優しい人なのだと思っていた。それだけだと思っていた。
恋を忘れるためには恋をすれば良い、などと言うけれど。恋をするたびに大切な人をひとりずつ失っていく自分はこれからどうやって歩いていけばいいのだろう。巻き込んで疲れさせて怒らせて散々振り回してやっぱり私には無理かもしれないって、いつまで同じことの繰り返しを続けるのだろう。恋愛に向いていない。知ってた。小さい頃から、そうだった。知ってた。でも、今回は上手くいくかもしれないと思ってしまった。期待してしまった。大丈夫かもしれないと思ってしまった。毎回、そうだった。恋が終わる度に自分をまたひとつ嫌いになる。迷惑ばかりかけて生きている。『私の知らないところで私に傷つけられていませんか?』って、昼間車の中で聞いた曲の歌詞がぐるぐる頭の中をまわる。
チヂミが美味しそうにジュージューと音を立てている。ごま油がふわりと香る。こんな夜中に三枚も焼いてどうするつもりなのだろう。私は玉葱で泣く女だぞ。ちゃんと涙もしょっぱいし、ずっと一緒にいたいと思ってた。あんなにボロボロ泣いていたのに、電話越しに鼻炎酷いねと一言だけ言った向こう側の人に、もう何も言えなかった。私は最後まで泣かない女でいなければならなかった。泣かせてごめんくらい言えよこのやろう。そんな言葉も全部飲み込んでしまったから、まだ胸につっかえたままで、たまに咳込んでしまう。次は、次に恋をするのならば、相手の前で思いっきり泣かせてくれ。相手の前で思いっきり泣けるくらい、相手に感情をありのまま出せる強い私でいられる恋であれ。もしも、もしも、次があるとするのなら。