牛乳でカンパイ、あのこのいない教室
あの子も、5年3組の仲間だ。
でも、あの子は、5年3組の教室に入ることはない。毎日保健室で勉強をしている。ある日突然あの子は教室に来なくなった。戻っておいでよってクラスの誰かが言ったとしても絶対にうんと言わないだろう。「保健室が楽しくなっちゃった」と、あの子は言っていたらしい。私が直接聞いたわけじゃないから知らないけど。
5年3組のみんなは優しい。毎日日替わりで誰かが保健室まであの子の給食を運ぶ。あの子が教室で給食を食べていた頃、八宝菜をいつも残していた。だから私たちは給食に八宝菜が出たらとびきり少な目によそうようにする。あの子の好きないちごが出た日は、誰かの分のいちごもあの子の皿に置いて保健室へ届ける。
5年3組のみんなは優しい。宿題のプリントやテストの範囲は必ず誰かが教えるし、学校の便りや通信もみんなが交互で保健室やあの子の家に届ける。調理実習で作った蒸しパンやクッキーも可愛い袋に入れて女子たちが保健室へ届けた。
5年3組のみんなは優しい。あの子が教室に入れなくなっても、あの子はクラスメイトだと全員が分かっている。教室には、あの子がいつでも戻ることができるように席もきちんとあるし、席替えの時もあの子の分のくじがある。決してあの子の席をいちばん後ろの隅っこに固定したりしない。
5年3組のみんなは優しい。私のクラスでは、誕生日の子がいる日は、必ず皆で「ハッピーバースデー」を歌う。給食のときに、牛乳で乾杯する。口々に皆が誕生日の子に向かって「おめでとう」って伝える。今日はあの子の誕生日だから、給食の時間は、きっと牛乳で乾杯をする。あの子のいない教室で。
5年3組のみんなは優しい。だって、あの子に優しくしているから。あの子が教室にいなくても、あの子を忘れることはないから。あの子を尊重しているから。でも、じゃあ、あの子は何故教室に来れなくなったのだろう。あの子にとって、当たり前のように教室で過ごしていた10月15日と、教室に来られなくなった10月16日は、何が変わったのだろう。
5年3組のみんなは優しくて、ほんとはとても意地悪だ。誰もあの子が教室に来なくなった理由を知りたがらない。あの子が教室に来られなくなっても、私たちクラスメイトの世界は一ミリも変わらなかった。それが、あの子が教室に来るのをやめた理由じゃないのかって、わかっているのに誰も言わない。黙っている。私も、そうだ。
5年生になって、クラス替えがあって、たまたまあの子は心から馴染める友達とクラスが離れた。私たちクラスメイトはそれぞれがクラブや習い事や家の近さやそういうもので気の合う「仲間」を見つけ、自然にグループができた。あの子だけ、「いつも一緒のグループ」がなかった。いじめでも、仲間外しでもない。5年3組のクラスメイトはみんな優しかった。だから、どのグループの子たちもあの子と仲良くしたし、自分のグループに誘う子だっていた。でも、あの子は、どのグループにも所属しようとしなかった。
あの子は、誘わないで、構わないで、っていうつんとした態度もとらなかったし、誘われればどの子たちとも遊んだり話をしたりしていた。私たちには、難しかった。グループにいても全然問題ないけれど、いなくても全然問題ないあの子と関わるのが、とても難しかった。あの子がクラスから浮かないように全員頑張っていたけれど、それが逆にあの子の重荷だったのかもしれない。私たちは、あの子との距離の縮め方が分からなかった。あの子にとっての「やさしさ」が誰もわからなかった。
あの子は、クラスでいちばん大事にされている。
でも、あの子は、クラスでいちばん大事にされることを望んでいなかった。
分かっていたけれど、私たちが離れればきっとあの子はクラスから一番遠くなってしまうから。どうにかしてあの子を「クラスに馴染ませよう」とする私たちは、意地悪だったのかもしれない。別に、無理して馴染まなくてもいいのに。私がそれに気づいたのは、ついこの間。
全員、きっと思っている。私も、思っている。馴染めないのは、私たちのせいでも、あの子のせいでもなかった。だから、「ごめんね」というのが正しいのかも分からない。自分たちばっかり、いつもきゃっきゃして笑える友達がいてごめんね。偶然5年3組に気の合う子たちが集まってごめんね。でも、それもなんだか変だもんなあ。
私たちは、教室にいないあの子のことをいつも少しだけ気にしながら、思い思いに楽しい学校生活を送っている。優しくて意地悪な5年3組のクラスメイト。八宝菜をわざと少なくよそうのだって、いちごを多めにするのだって、宿題のプリントを毎日届けるのだって、本当はあの子にとって「うざったい」ことなのかもしれない。やめた方がいいのかもしれない。でも、「やめて」って言われるまで、私たちはずっとやめることができない。今でも私たちは、あの子との距離が正確にはかれない。
給食の時間になった。教室にいないあの子の誕生日を祝うために、みんなが牛乳を手にしてハッピーバースデイを歌う。
なんか、とてつもなくヘンだよね。みんなそう思っているのに言わない。代わりに、笑顔で隣の席の子と牛乳パックを合わせる。
カンパイ。あの子のいない教室。
ゆっくりしていってね