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くるクル狂ドーナツ?
▢▢私▢
はじめてバイトを当日欠勤した。18歳からずっと何かしらのアルバイトをしてきて、今日がはじめて。彼氏のたっくんの部屋のベッドの上で正座をして、震える声で「体調が悪いので休ませてください」と言ったら、いつもは陽気な店長は「そうかあ…そうかあ…仕方ない…今井君に頼むか…」と電話の向こうでうろたえた後に、取ってつけたように「安藤さん、お大事にね」と言って切った。バイト先は、駅前のドーナツ屋。時給950円。2年間働いてきて誰かの代わりに出勤したことはあっても、シフトを休んだことなんてない。あまりのこころもとなさに涙が出る。社会から切り離されてしまったみたいな、惨めな気持ちになる。バイトがなくなったら、私、社会にとって何の意味もない。本当は今すぐにでも働きたい。
たっくんは8時過ぎに家を出てった。飲食店の正社員。私より4つ年上だけど、多分そんなに給料もらってない。それにたっくんは、一日一箱タバコを吸うし、仕事終わりに仲間やバイトの子たちと飲み歩く。休みの日にはパチンコにも競馬にも行くし、大学の奨学金の返済もあるって言ってた。きっと、たっくんに貯金っていう概念はない。そんなたっくんに、言えるはずなかった。「アフターピル、いくらか知ってる?」って。
大丈夫、私は真面目にアルバイトしてきたし、少しだけなら貯金もある。今日一日欠勤した分は明日からまた頑張って挽回して、きっと私の代わりにシフトに入ってくれたであろう今井さんには明日会ってすぐに謝罪しよう。私が今からすることは、産婦人科を探すこと。できれば家から遠ければ遠いほど良い。一人でひっそり行って、ひっそり帰ってこられるような。ううん、でも、きっと早い方が良い。近くでも、早くピルが手に入った方が良い。それに、服用したとしても、避妊確率なんて100パーセントじゃない。そんなこと、知ってる。物事に100パーセントなんてないのだ。どこにも。
■俺■■
俺が仕事に出かける時、彼女はまだ布団に丸まっていた。「今日バイトは?」と聞くと「休む」と返ってきた。休むなんて彼女にしては珍しい。その後に「やっぱり心配だから、産婦人科行ってくる」とも、布団に顔をうずめてゴニョゴニョと言っていた。「そんな心配すんなよ」と彼女の頭をぐしゃぐしゃと撫でると、「そういうのじゃないんだってば」と冷たい声が返ってきた。よく分からない。よく分からないので諦めて「じゃ、行ってくるから」と声をかけ、彼女を残して家を出た。
簡単に言えば、昨晩、避妊に失敗した。終わった後、「あ、やべ」と言った俺の声を彼女は聞き逃さなかった。「どうしたの」丸い瞳でまっすぐに問われ、「ゴム破けてたわ」と答えると、彼女はそこから押し黙ってしまった。怒っているのか何なのか分からないから、「あのさ、言ってくれないと分からないんだけど」と強めにぶつけると、背中を向けたままの彼女が「今日危ない日だったかも」とだけ答えた。
危ない日、つまり、妊娠するかもしれないってことか。でもまあ、妊娠したらしたで何とかなるんじゃないか。一応俺も仕事してるし、正社員だし、彼女は可愛くてアルバイトにも真面目に行っている良い子だし、そのうち結婚とか、すれば、それも良いじゃん。っていうか人間そんなに簡単に妊娠しないでしょ。…と、そういうニュアンスのことを一通り言って、気づいたら俺は眠ってしまっていた。そのまま朝になっていて、彼女の機嫌は全くなおっていなかった。
今まで、どんな状況に直面しても、それに身をゆだねて、誰かの言うことに従って、なんとなく流されていけば上手くいった。選択を迫られることなんてほとんどなくて、まわりの皆が行くから俺も大学に行って、まわりの皆がするから俺も就職活動して、まわりの皆が「働くのなら正社員が断然良い」と言うから何となく飲食店の正社員に応募して、そこでそのまま働いている。自分から付き合おうと言ったこともない。彼女の方から告白をしてきて、可愛いと思ったから付き合った。決断なんてする機会はなかった。まわりの様子を見ていれば自分の進むべき方向なんて簡単に分かったから。
▢▢私▢
拍子抜けするくらい簡単にアフターピルは手に入った。あっさりしすぎていて、こんなものなのかと思う。処方されたピルは、帰りに立ち寄ったショッピングモールの化粧室でのんで、ごみも一緒に捨てた。今日のことなんて全部忘れたくて、薬のパッケージとかそういうもの何も持ち帰りたくなかった。ピルをのんでも不安は不安で、だって100パーセントなんてどこにもないから、だれも100パーセントの安心なんてくれないし、自分でも作りあげられないから、不安で、不安で、一人で家にいたくなくて、カフェに入った。モカのトールサイズをひとつ、と注文すると、手際よくお姉さんがコーヒーを作り始める。確か、バイト先によく来るお姉さんの名前は「モカ」だった。今井さんがやたらと話題にあげる綺麗なお姉さん。私がすすめた時にはポイントカード作ってくれなかったのに、今井さんがすすめた時には作ってくれたらしい。それが悔しくて、覚えている。私は、仕事に一生懸命だ。それはもう、ダサいくらいに一生懸命。働くのが楽しい。今井さんみたいに仕事でダルそうな表情を見せたり、ポイントカードの声掛けをサボったりもしない。ポップだって新商品が出るたびに丁寧につくるし、レジのお金だっていつもバッチリあう。働いている時の私はちゃんと社会の一員で、店長とかまわりの人とか、お客さんとかに必要とされてるなって感じる。こんな時に妊娠してちゃ、結婚も考えていない人の子どもを授かってちゃ、私は私でいられなくなる。
ぐるぐると結論の出ない考え事をしながら甘いモカを飲んでいると、スマホの通知が鳴る。たっくんからのメッセージだった。【どうだった】のたった一言だけ。どうだったとは、どう、なのか。たっくんはいつもこうで、詳しく伝えなくても相手に自分の気持ちを汲み取ってもらえると思ってる。人が言うことに賛成ばかりしているし、たっくんの意見ってあんまり聞いたことがない。
◼️俺◼️◼️
昼過ぎ、急に不安が襲ってきた。時間がたつにつれて、彼女が妊娠したら、という「もしも」が俺の中で現実味を帯びてきたのだ。確か産婦人科に行くと言っていた。きっと、きっと大丈夫だけど、と何故か心の中で言い聞かせながら、ついに夕方俺は煙草休憩中に彼女にメッセージを送った。【どうだった】と送ったメッセージの返事は、【産婦人科行ってくすりもらってのんだ】だった。俺はほっと胸をなでおろした。それなら、大丈夫だ。【良かった、それなら大丈夫だね】思った通りのことをそのまま返信して仕事に戻った。
それで解決したと思っていた。
それなのに、退勤後、俺が目にしたメッセージは、【別れよっか】だった。
▢▢私▢
やっぱりたっくんって、分かってない。優しいところは好きだったけれど、それって「たっくん自身の考えがない」ってだけだった。たっくんは運が良くてずるい。たっくんはたまたま男に生まれて、奨学金借りれば大学も行けるくらいの家で育って、なんとなく就活して正社員になって、そんなのズルい。私はたまたま女に生まれて、両親は小さい頃に離婚して、大学に行ける余裕なんてなかったから泣く泣く高校卒業してすぐに働きだした。どんなに時給が安くてもやるべきことは手を抜かなかったし、ありがちな「男性上司に媚び売って正社員になる」みたいなこともしようとしなかった。1、2年目の正社員の人よりも明らかに仕事していたし、責任を持って仕事した。でも、所詮私はアルバイトだったから、そこまで。だから、たっくんのこと、ずるいなって思ってた。羨ましかった。私は、欲しいものは欲しいって言わないと手に入れられない人生を歩んできたのに、必死に努力したって欲しいものが手に入らない人生を歩んできたのに、欲しいのか欲しくないのか分からないたっくんが人生イージーモードに見えるのが許せなかった。今日だって、…どうして私ばっかり不安で、今も不安で、産婦人科の待合室で、どうして私はひとりぼっちで名前を呼ばれるのを待っていなきゃいけなかったんだろう。バイトに行きたかったのに。今日も笑顔でドーナツを売りたかったのに。時給950円の8時間、今日もし出勤していたとしても、アフターピル代すらまかなえない。そんなこと、たっくんに言ったところでたっくんは理解してくれるのだろうか。モカを飲み終えて、たっくんにメッセージをうつ。【別れよっか】きっと、自分のないたっくんは「分かった」って言うのだろう。
■俺■■
メッセージを読んですぐに彼女に電話をした。「もしもし」何事もなかったかのように電話に出る彼女に、少しだけ安心する。別れよっか、なんて、どうせ引き留めて欲しくて言っただけだ。でも、安心もつかの間だった。
「たっくん、別れよ」
彼女は、ちゃんとそう言った。沈黙が流れる。「ええっと、どうして」やっと振り絞った声は情けなく響いた。彼女は少し考えた後に、「もうたっくんとは付き合っていけないかなと思った」とだけ答えた。分かりにくい。もっと分かりやすく説明して欲しい。彼女はいつも曖昧な表現ばかり使う。俺には理解できない言葉ばかり飛んでくる。察して欲しいと思ってつかう言葉は全部分かりづらい。彼女はいつも、まわりくどい。
「あのさ、俺が何か嫌なことしたとか、どこが悪かったとか、教えて欲しいんだけど、じゃなきゃ納得できない」電話の向こうで押し黙っている彼女に問うと、彼女は「意外、」とつぶやいた。「たっくん、別れよっかって言ったらすぐにうんって言うかと思った、たっくんって自分の意見ほとんど言わないから」
▢▢私▢
たっくんが電話をかけてくるとは予想外だった。もっとあっさり別れるのかと思っていた。私が思っていたよりも、私はたっくんにとって重要な位置にいることができていたのかもしれない。今更だけどそうだったらすごくうれしいことだ。でも、私の中では?昨晩、たっくんの「あ、やべ」を聞き逃さなかった。それからずっと不安だった。この人と結婚はできない、この人との子どもを生むのはこわい、一晩中そう思っていた。じゃあ、そんな風に思っているのにどうして付き合っているの?
分からない、と思った。よく考えたら、たっくんと付き合っている意味が、分からなかった。
最初は、彼氏がいれば安心だと思った。年上だし、働いてるし、正社員だし、優しいし。何か起こったら守ってもらえると思った。一人でいるよりも二人でいる方が楽しいし、安心だと思った。思ってた。でも、実際付き合ってみると、そうでもなかった。不安も、めんどくささも、憂鬱も、誰かを僻む気持ちも、倍になった。
私は100パーセントの安心が欲しいのに、誰もそんなの持ってない。その点ドーナツは良い。まん丸で、真ん中にあいている穴もまん丸で、全部がまん丸で、100パーセントって感じがする。甘くて、可愛くて、ドーナツを食べている時だけは何となく幸せな感じがするし。分かりやすい幸せって、とてもいい。100パーセントの幸せなんてそんなのないって分かっているけど、100パーセントに近い幸せならきっとある。それを一緒に見つける相手は、たっくんじゃない。
「あのさ、考えなおして欲しい」「別れる理由がそれだけっておかしいだろ」「もっと思ってることちゃんと言ってくれよ」電話の向こうで今までにないくらいの勢いで迫ってくるたっくんの声を聞きながら、たっくんの本気をはじめて見た気がした。たっくん、ちゃんと、こんな風に「どうして」って言えるんだ。言ってくれる人だったんだ。じゃあ、私が思っていること全部言ったら、たっくんは分かってくれたのかなあ。
少し遅かったな。これが、昨日の夜だったら、たっくんが私の「不安」に反応してくれていれば、もしかしたら違ったのかもしれない。私がもっと怒れば良かったのかもしれない。こっちはこんなに不安なのに、のうのうといびきかいて寝てるんじゃねえよって大声で泣き叫べば良かったのかもしれない。電話の向こうでわめいているたっくんの声を聞きながら、たっくん、アフターピルの避妊確率とか、一生知らないんだろうなって考えていた。
これはフィクションです!!!!!!
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