21.インドで作った曲が中心のホワイトアルバムなのにインド音楽が影を潜めた理由は?
インド音楽そのものと言えるThe Inner Lightのレコーディングを終えてインドに行ったにも関わらず、帰国後は全く封印してしまいました。
ホワイトアルバムを初めて聴いた時の疑問がコレでした。恐らく誰しも同じではないかと思いますが、不思議とビートルズ関連本には答えがありません。唯一の記述はジョージの自伝『I ME MINE』に掲載されています。
ジョージにはインドに2人の師がいました。一人は瞑想(精神世界)の師であるマハリシ、
もう一人はシタール(インド音楽全般)の師であるラヴィ・シャンカールです。
68年2月〜3月のインド滞在はマハリシのレクチャーを受ける事が目的でしたが、ポールとリンゴはジョンとジョージほど真剣ではなく体験入学程度の参加でした。
そのジョンとジョージもレクチャーを完遂することなく帰国しています。マハリシの淫交疑惑(現在ではマジック・アレックスのねつ造と考えられています)が原因で、ジョンはその状況をSexy Sadieとして歌いました。一方のジョージはNot Guiltyと無罪判定をしています。
これらの曲も含めてインド滞在中に大量に作曲した彼らは(ポールは何故かアメリカを舞台にした曲ばかり作っていますが)、ホワイトアルバムのセッション前(5月末)にデモ録音をしています。
しかし、興味深い事にジョージはSour Milk Seaをはじめとしてインドの精神世界を強く連想させる曲のレコーディングを避けたようにも見えます。
これは前述の事件が影響したのではなく、もう一人の師ラヴィ・シャンカールのアドバイスによるものでした。
アルバムセッションはジョンの曲からスタートするのが恒例です。そのRevolution (Esher Demo)がRevolution 1とRevolution 9に分裂した頃(6月中旬)、ジョージはアメリカで映画撮影をしていたラヴィ・シャンカールの元を訪れています。
ジョージはシタールも持ってニューヨークのホテルに滞在します。そこにはエリック・クラプトンやジミ・ヘンドリクスも居ました。
その時にラヴィはジョージのルーツを問い、リヴァプールではないのかと諭しています。その問答を経てジョージはシター奏者としての限界を認識し、ギターに戻る事を決意しています。
デモ録音5曲の内、採用したのはWhile My Guitar Gently WeepsとPiggiesのみで、Not Guiltyは録音までは終えたものの採用されませんでした(明確な理由は明らかになっていません)。
ジョンも比較的インド音楽の流れを汲む曲を作っていますが、Dear Prudenceでも今までのようにタンブーラのドローン(持続音)を使うことなくギターだけで表現しています。
アルバム全体を支配しているのはインドに同行していたドノヴァンから伝授されたギターテクニックですが、これについては多くの論評があると思いますので別の機会に(何でしたらビートルズに特化した拙作アプリLinerNotesで是非!)。
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