11.ジョンの人生で最も重要なギャラリーは?
「人生で最も」と書いた通りヨーコと出会った場所であるインディカ・ギャラリーなのは自明ですが、今までのビートルズ史ではほとんど触れられませんでした。
ジョンは64年のボブ・ディランとの出会いで作風に変化が表れますが(ジョン曰く、周囲の影響を受けることカメレオンの如し)、インディカではその後の詩作に大きな影響を与える2人と出会っています。
以下は音から独自分析したものではなく、ポールに関する伝記「MANY YEARS FROM NOW」(バリー・マイルズ著)に記載された情報とジョンの発言を統合したものです。
このギャラリーを拠点に音楽面でも重要な展開が起こっており、いくつかの逸話が関連していた事が明らかです。歴史は点ではなく時間の流れであるという分かりやすい例になっています。
65年夏のアメリカ・ツアー前、ポールは ピーター・アッシャー(当時の恋人ジェーンの兄) を介して ジョン・ダンバー(マリアンヌ・フェイスフルの当時の夫) と バリー・マイルズ(『MANY YEARS FROM NOW』の著者)と知り合っていました。3人(イニシャルを取って通称MAD)は以前から計画していた前衛芸術のギャラリー&本屋「インディカ」を9月(『RUBBER SOUL』のレコーディング直前)にオープンしています。
ここが以後のビートルズに於ける裏舞台となっています。
オープン当初からポールもその顧客であり、足しげく通って前衛芸術にも造詣を深めていました。
66年3月(『REVOLVER』のレコーディング直前)にはジョンを連れて行き、この時にジョンはティモシー・リアリー博士の著書『Tibetan Book of the Dead』と出会います。これが‘Tomorrow Never Knows’の切っ掛けとなっているのは有名です。
次いで同年11月、MADの1人であるジョン・ダンバー経由でヨーコが個展『未完成の絵画とオブジェ』を開催しますが、その前日(6日までスペインで映画撮影していて帰国直後の9日!)に鑑賞したジョンは≪天井の絵/イエス(YES)・ペインティング≫に感銘を受けたのも又、有名な逸話です。
その後、ジョンの詞作はヨーコの著書『グレープフルーツ』の影響を受けています。
映画『LET IT BE』の撮影が終わった後(69年3月)、2人は結婚してハネムーン中のアムステルダムで「平和のためのベッド・イン」イベントを行なっています。直後の5月下旬にはカナダのモントリオールでも「平和のためのベッド・イン」を再現し、6/1には‘Give Peace A Chance’を録音しています。
ここで再びティモシー・リアリーが登場します。ジョンがリアリーにも参加要請をしていたのですが、そのリアリーから「カリフォルニア州知事選に出馬するためのキャペーン・ソングを作って欲しい」と依頼されています。そのキャンペーン・スローガンが“Come together, join the party”だった事が切っ掛けとなってジョンは‘Come Together’を作曲しています。
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