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【掌編】三峯の記憶

 純粋な眼をしていると言われた。心外である。歪な色をした血を持ち、汚れ汚されながら生きてきたというのに、今更もって純粋とは——。
 あてはまる節はあるといえばある。これをそう呼ぶかはわからないが、あるひとの言葉に傷つき、悪夢にうなされ、丑三つ時に飛び起きたときのこと。就寝前はいつもの睡眠導入剤を服用したはずなのに、二度寝もできず、わたしは混沌とした闇夜へ案内された。わざわざ昨日の出来事、或いは夢の内容を思い出しても仕方がない。一度汽車に乗ったら途中下車は赦されないからだ。しかし、いくら耳を塞いでも汽笛の音は耳殻に寄り添いケタケタと笑いかけた。 

 時計を見ると深夜の三時を回ったところ。わたしはブラックコーヒーを飲んで目を覚ますか、もう一錠睡眠導入剤を飲んで寝るかの二択に迫られる。夫は隣で熟睡しているから相談できない。どちらもいい結果を生む保証はないうえ目が冴えてきたので、わたしは自室に移動することにした。すると愛犬のゆめが駆け足でついてきた。ゆめは信じられないくらい、わたしに懐く。元来、寂しがり屋な性格からか、ちょっとでも離れると磁石のようにくっついてくる。ゆめを膝上に抱きながら、わたしはSNSを開いた。こんな時間だというのに、タイムラインは渋谷のセンター街の如く賑わっている。どうでもいいような投稿で溢れているなか、異彩を放った絵画と出くわした。蒼白い夜空を背景に描かれた不気味な狼である。わたしは迷わずブックマークした。あまりにも衝撃的なその絵画に数分間魅入ってしまった。

 思い起こせば五年前、一時的に狼信仰をしていたことがある。埼玉にある三峯神社に赴いたとき、わたしも夫も動物占いで狼属性にあたり、性格も一匹狼というところからか、妙に居心地が良かったのを憶えている。わたしが犬派というのは、狼信仰というルーツからきているのかもしれない。三峯神社には不思議な逸話がある。眷属の狼を拝借できる制度があるのだ。参拝時は、さすがに怖くて拝借などできなかったが、社から不思議な気を感じたのは記憶に新しい。なにしろ眷属拝借すると一年間、自宅で狼の幻を見たり、触れ合ったり、遠吠えを聴いたりするのだとか。帰りのバスのなか夫が微笑みながら話しかけてきた。

「三峯やっぱりすごかったね」
「うちらどっちも狼属性だから引き寄せられたのよ」わたしは真剣な表情で返した。
「うん。でも眷属拝借は怖くてできなかったね」
「拝借したら、ゆめが嫉妬しちゃうよ。狼ばっかり可愛がらないでーって」「あはは。そうかもね」

 夫の笑い声がバスのなかに響いたとき、どこからか寂し気な遠吠えが聴こえてきた。わたしは驚きながらも心のなかにその声を抱きとめる。透き通った両手を使って小火を消すかのように。恐怖を枯渇しかけた感情で異なるものへと変容させるかのように。時間と共に狼と思わしき声が小さくなってゆく。やがて消沈したとき、頬を伝ってきた一筋の涙。わたしは視線を車窓の外へと固定したまま、そっと口角をあげる準備をした。

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