久木田茜「残されたもの(3日目)」
龍山には、小学校がない。
数十年前にあったがなくなった。
もう新しい命を育ませる環境がない。
そのことは、もう未来のない村であることを意味する。
だから、「どのように残すがが重要だ」とホストの鈴木のぞみさんはこの日の終わりに言っていた。
3日目は、午前中に龍山瀬尻区の氏神様である白山神社へ。
神主さんのお話を聞く。
午後は江戸時代に栄えたぶか凧の最後の制作者へお話を聞きにいった。
12月に開催され参加予定のイベントの会場である、廃校となった小学校の見学。
夜は地域の方との交流会であった。
今回はその中でも最も興味深かった白山神社について。
瀬尻区の氏神である、白山神社は瀬尻区の山の高い位置にポツリと存在する。
仏教や神道の認識があやふやだった江戸時代に、
観音様や小仏を収めて神として祀った権現神社である。
正直、私は権現神社というのをあまり存じなかった。
神社なのに、観音様と小仏を何で祀るの?と話を伺って??のようだったが、
江戸時代の人たちにとっては、神道も仏教もあんまり漠然としているのには現代ともしかしたら変わりのないのかもしれない(笑)
現在では、イスラエルで戦争が起きているが、日本では江戸時代から宗教の違いなどもあまり気にしない「おおらかさ」があったように感じた。
いずれにせよ、人たちが求めていたのは、自分たちの生活を良くしてくれるものならなんでも求めたというところか。
そこには、仏教や神道のスタイルを問わないハイブリットの形式が登場する。
こういったスタイルは日本では多い気がするが(例えば、カレーライスとか)、宗教もそのようにごちゃごちゃしていた時代があったのは正直驚いた。
個人的な興味の装飾についても前日の秋葉神社から比べてみると当たり前だがかなりずつ違う。
屋根の装飾は作り直したものだったでしょうか(うろ覚え)
柱の水のイメージはおそらく江戸時代から作られたもの。
大体、神社はこのように魔除けとして装飾を施しているような気がする。
人工的な建物に、水のイメージが混ざり合う装飾は、象徴的な意味を持ち存在する。
しかしながら、このような装飾は建物のごく一部の飾りでしかない。
機能あるものに、抽象化された自然の形象が文様化して存在している。
こう言った人工物の中にさりげなく存在している自然の形象ってなんかいいよって思ってしまう。
ところで、この三日で、龍山という村の輪郭捉えようとするならば、江戸時代、高度成長期、という二つの時代の遺産によって成り立っているように思う。
白山神社やぶか凧などは江戸時代から守り継がれてきたものであるし、
この村のシンボルと言えるような中心に大きく置かれる秋葉ダム。
これによって秋葉湖と呼ばれる川のような雄大な人工湖が存在する。
江戸時代の文化、近代化に向けた巨大なコンクリ、そして静岡特有の茶畑が点在し、山間に住む人々。
当然だが、江戸時代と近代化には大きなものづくりの断絶感を感じる。
例えば、ダムには私が神社に着目したような装飾はない。
ダムは巨大なコンクリートの塊の巨大な構造物にみれる。
こういった存在は、とにかく巨大でパワフルで男性的というか色気のないような存在に思える。
日本における近代化、という観点から考えれば装飾的なものはいささか色気やチャーミングな存在として立ち現れている。
先に見た江戸時代の装飾の人の手の存在した痕跡から、祈りと救いの希求の念が伝わってくるようだ。