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町田有理「とったか見たかのスサビ暮らし(5日目)」
「とったか見たか」は、宵越しの金を持たない稲取の漁師の生活を表す方言。地元のHさんから、1960年頃の稲取のお話しを伺い、それまでの稲取のイメージが打ち砕かれる。そのお話しの内容は記事の最後にまとめる。
【is 稲取_008 とったか見たかのスサビ暮らし】
月曜日は、朝ご飯を食べられる場所が少ない。ホストの方の提案で、「m's slow food」で豪華な朝食を。稲取のご飯は美味しく、東京ではなかなか摂ることのできない魚や野菜を、毎日摂ることができる。
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食べたら動く、と前から気になっていた素戔嗚神社の石段を登って参拝。毎年7月16日のお祭りでは、お神輿がこの急な長い石段を降りるという。「これじゃあ、どうだ」の掛け声でお神輿を荒々しく揺すり、伝染病が流行しないよう願うのだそうだ。御神体はあのスサノオ。それに、祭りになると穏やかな地域が豹変する、ということはあると思うが、普段穏やかに見える稲取の方々の「荒々しい様子」とはどんなだろう、と想像してみる。
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港沿いに歩き、史跡の畳石を見て、物産販売所の「こらっしぇ」へ。漁船クルージングの張り紙にそそられ、電話をかける。しかし、風が強すぎ、少なくとも明日の昼までは欠航とのこと。いかにも「風待ち港」らしい体験だと思う。ならば、つるし飾りを作ろう、と体験工房を訪れるも、臨時休業。
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そこで、昨日の古本市でおすすめいただいたシーグラス拾いをしに温泉街へ。しかし、どんなに波打ち際を歩いても、シーグラスは見つからない。
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道中、江戸城築城のために使われたと思しき石(岩)がごろごろ。
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そのうち、石(というより岩)に波が当たって砕ける様子の撮影にはまる。結局シーグラスは見つからなかったので、雛の館でつるし飾り制作体験キットを買って、「so-an 赤橙」の「すみんこカフェ」へ。
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キャロットケーキを食べながら、お客さんの話に耳をそば立てつつ、しばし針仕事。キャロットケーキは、しっとりしたパウンドが、シナモンの香りと馴染んでとても美味しい。ハロウィンメニューのパンプキンタルトも食べられそうだったけれど、稲取でズボンの上に乗り始めたお腹を感じて我慢。
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針仕事もそこそこに、海が見える明るいうちに、海辺の温泉「石花海」へ。
「石花海」とは、伊豆の海底に広がる海の丘のことだそう。夕暮れ時から、空が完全に暗くなって、海の波の上に月の道ができるまでの2時間半、温泉を満喫する。
夜、「EAST DOCK」のシェアキッチンで、3ヶ月ほど前に稲取に移住されたSさんの手料理をいただきながら、(稲取はなぜか移住者の方々も料理上手)Hさんのお話しを伺う。Hさんは、21歳の時に下田から稲取に移住された稲取歴60年の大先輩。
過去に書いた記事の訂正も兼ねて、1960年当時の稲取の様子を箇条書きにしてみる。
・「げんなり」とは、お腹がいっぱいでもう食べられない状態を表す方言。
「げんなりずし」に箸を突き刺して、寿司が箸にくっついて持ち上がらなければ、ケチだと言われたので、みんな必死に寿司飯を押し固めた。
・「稲取」の地名は、一説によると、真水がなく、稲作が出来なかった稲取の住民が、河津町の稲を取って(盗って)いたことに由来する。
・漁業と農業が連携できていたのは、みかん畑の観光のおかげ。稲取は熱川のように浜がないので、海水浴場を観光資源に出来なかった。その分、温泉を採掘し、観光客にみかん畑を観光してもらうことで、伊豆の他の地域との差別化を図った。
・昔は芸者さんが200人以上居り、見番(置屋)も2つあった。2つの見番は、お互いに協力し合うことはせず、常に凌ぎを削っていた。
・祭りのお神輿や、「若い衆制度」の酒器などは、年番の集落が管理する。しかしなぜか、年番の集落は様々な方法で、次の年番の集落にこれらをギリギリまで譲らまいとする。
・同じ集落に住む人は、ほぼ全員苗字が同じ。お互いを本家、隠居、三居と呼んだり、屋号をつけて呼び分けていた。 「がんだめし(しっかり炊けていないご飯)」「赤大根」「つっつく」など、独特な屋号があった。また、漁師は船の名前で呼び分けていた。
…と、こんな訳で、今まで着々と培ってきた「稲取=穏やか」のイメージは、岩に砕ける波の如く、鮮やかに打ち砕かれて痛快だった。
滞在は残すところ2日間だが、まだまだ知らない一面を発見していきたい。