関根愛「なんにもないところ、げいじゅつのうまれるところ」(滞在まとめ)
寂しいところ。なんにもないところ。
ゆけど、ゆけども、なんにもないところ。
これは、「道」という歌のサビである。
これは、言葉づらだけをちらっとみても、だめだ。
この歌詞に、このメロディーあり。
このメロディーに、この歌詞あり。
滞在中、なんども心のなかで歌った。
夕暮れどきの弓ヶ浜では、小さな声でいちどだけ歌った。
寂しいところ。なんにもないところ。
ゆけど、ゆけども、なんにもないところ。
それは、私が無意識でつねに探し求めている場所、あるいは感覚である。
南伊豆町はまさにそんなところだった。
南伊豆という町
日本のなかの、伊豆というちいさな半島の、ほんとうの先端。
半島を海沿いに延々と南下すると、たどりつく町。
次々と景色をうしろに見送っていくにつれ、どんどんどんどん、なにもなくなっていく。
その町には海があり、山があり、岩があり、川があり、里がある。
さえぎるもののない陽がそそぎ、どこまでもつづく闇がある。
こんなになにもない、人の気もない、先っちょの隅っこまでやって来て、わざわざ住み着こうというんだから、多かれ少なかれきっとここに暮す人はそういう人なんじゃないかと勝手ながら思う。
南伊豆町には7,800人くらいが暮らしている。
そのうち2,000人くらいが移住者だという。
そもそもそれ以外の5,000人とかだって、長い歴史でいえばかつての移住者だ。
みんな、わざわざこんな、なにもない、だれもいないところまでやって来た。
そして、そこで代々風に吹かれ咲くと決めた草のように、根を張った。
もちろん、なんにもないというのは全体を言い表しているのではない。
なんでもある、というのと、表と裏であるどころか、まったく同義である。
アートってなに?
タイトルに、「げいじゅつのうまれるところ」と書いた。
げいじゅつ、ととりあえずひらがなにしたのは、漢字が堅くるしいからだ。
そもそも、げいじゅつという名前を好きじゃない。
それを英語にしたアートは、もっと好きではない。
いろんなことを煙に巻くような性質のことばは、できるだけ使いたくないのだ。
世の中は、こぞってそういうことばを使いたがるけれど。
使うなら、しっかりじぶんで定義をして使わないといけないと思う。
マイクロな、アートの、ワーケーション。
いったい、なんのことなんだろう?
アートとよばれるものに一応たずさわっていることになっている私でさえ「?」だ。
この町をいちども出て暮らしたことがないという地元のおばあさんにとったら「?????」ではないだろうか。
現に、そういうおばあさんが今回の住民の人たちとの意見交換会に、いた。
そして「アートって一体なに?」と無垢な疑問をぶつけたのだ。
正確には、アーツカウンシルさんは、この場所で、アートと地域をどう結びつけようとしているのかしら?
みたいな質問だったような気がするけれど、わたしにはこうとしか聞こえなかった。
「ねえ、アートって一体なに?」
「アーティストって、なにがしたいの?」
そんな率直な問いに触れるとき、必ずよぎることがある。
アートと、アートでないもの。
アーティストと、そうでない人。
そういう区別あるいは分断を、私はとてもナンセンスだと思う。
便宜上そういう分け方をすることはあっても、そこにあまり深い意味を持たせることはどうしてもできない。
区別が好きな人は、なんでも分けたがる。
そのほうがずっと分かりやすいからだ。
"分かる"は、"分ける"でもある。
どこで分けるかの線引きは自由だともいうが、そもそも分けるという行為そのものが不自由に私には思える。
アートってなんなんだろう?
きっと、いろんな答えがある。
私は「別の視点をもって今いる世界をみてみること」と答えたい。
あるいは「生きていくための切実な工夫、あるいは取り組みのこと」でもいい。
この二つはきっと同じことだと思う。
アーティストは、それをする人のこと。
言いたいのは、つまりそれをしていない人なんかいない、ということだ。
今回私たちは便宜上、アーティストという名前で派遣されてはいるが、それは何らかの作品を作って発表している人、という意味でしかないだろう(もとい旅人、のほうがずっとしっくりくる)。
だから、アーティストとされている人以外の人がアートをしていないのかといわれたら、私はそうですね、とは言えない。
アートのあるばしょ
じゃあ、マイクロアートワーケーションって、なんだろう?
これ以上は分けられないというくらいまで純粋な視点をもって、さまざまな人びとが暮らすこの世界を、面白く、時におかしく、子どものように、ただみつめ、体験すること。
なんじゃないかと思う。
まちがっても、アーティストがひょっこりやってきて、地域住民の人たちにアート(この場合のアートは成果物とか作品とか形あるものをさしている)の存在に触れてもらうとか、アート思考(なんだそれは?)らしきものをもたらすなどという、ちんぷんかんぷんな話ではないはずだ。
社会にでると特に、人間にはもたらす側、もたらされる側という構造を無意識にインストールし、何かにつけてそういう見方をしてしまう。
でも、ひとは相互作用でしかない。そのことを忘れたら終わりだ。
ほんとうはむしろ逆で、ここで生きる人たちがふだんの暮らしの中で無意識に行っているアートにアーティストとされる側が気づかせてもらう場だと思う。
とことん暮らしに根ざした場所に、なんのしがらみも評価もジャッジもない、まっさらの場所におりていき、そこに生きる人たちに備わっている自由な、しなやかな、時にすさまじい、生きるちからを垣間見たり、触れたり、する。
マイクロアートワーケーションは、それができる時間だ。
私にできることは、そうやって触れさせてもらった、多様なアートのもとのようなものをすくいとり、大切にじぶん自身の中に生かしていくこと。
おしえてもらったことを、じぶんの中にあるものと交わらせて、噛み砕いて、消化し、血肉にしていく。
これは、まさに食事をするということと同じプロセスだ(だから私は創作のうえで、人が食べるという行動をテーマにすることが好きだ)。
詳しくは日々のnoteに書いたので割愛するが、南伊豆ではそれが叶った。
もちろん去年の三島でもそうだった。
地産の食材を調達し、毎日自炊をし、それ(ばかり)をnoteに記録した(すごく楽しかった)。
地元の人が捕まえた害獣(アナグマ)をさばくのも、それを黙々と調理するのもまじまじと見て、その肉を生まれて初めて食べた。
宿のオーナーには、地魚の捌き方や美味しいレシピを教わった。
最終日の夜には、古民家で自然農を営むご家族の食卓にお招きしてもらい、ごちそうをいただいた。
食べることにあふれていた。
それはこのなんにもないところで、生きることに直結している、いちばんのアートのおおもとのようなものだからだろう。
なんにもないところ
プロのアーティストという自負もない。これからもなるつもりはない。
それよりずっとずっと、生きるのプロになりたい。
この南伊豆町にいる人たちみたいに。
かれらは水道管の調子がわるくなっても、屋根が壊れても、じぶんで直せる。
もしどうしてもじぶんには無理でも、隣のひとや、その隣のひとの力をなんなく借りられる。
家を作り、草が生えたらむしって焼きはらい、虫を手懐け、山から水を引いてきて、温泉をのむ。
川と海で釣りをしたり、畑をやったり、猪や鹿をつかまえてさばいたり、じぶんが食べるものをお金を介さずにじぶんの手で得る。
なんにもないところから、立ち上がって、なんでもつくるし、なんにでもなれる。
そういう、なにがあっても生きていく力を持っている人が、生きるのプロだと思う。
生きるのプロはだから、視点を変えるという、精神的にとても重要なことをとても自然にやっている。
目の前にあるものを、いちばんいい形で活かすために、いろんなアイディアを試してみる。この手でできることはなにか、つねに考える。
うまくいかないことがあっても、冷静になって、じぶんがどれだけちっぽけかをちゃんと知り、視点を変えてやり直してみる。
思いもよらぬところで転んでしまったとしても、まあなんとかなるかと深呼吸をして、前を向いて歩いていく。
そうやって皆、生きていくために切実な工夫をして、日々淡々といのちを繋いでいる。
私は、この切実さこそがアートの起源なのではないかと信じている。
だから、アーティストとよばれる人だけがそれをしているなんて、つゆほども思わないのだ。
この地球に生きているだれもがやっている、やろうとしていること。
時にうまくいかないけれど。
去年滞在した三島のことがちょっと気になって、noteのページをひらいてみた。
沢山の記事があがっているので、どれかひとつだけ読もうとクリックした。それが、ゴムチューブの彫刻作品を背負って街を歩く坂井存さんの記事だった。
そこにはこう書いてあった。
芸術は、一部の愛好家や専門家のものでもない。もっと、普段の生活の中にこそあるべきだ。
このなんにもない南伊豆町に、あらゆることを日々生み出して、それをひけらかすでもなく、特別視するでもなく淡々と、時に面白がって生きている人たちと出会ってしまったらもう、それはおのずと確信へと変わる。
なんにもないところは、今日もげいじゅつの住処なのだ。