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癸生川栄(eitoeiko)「松崎町滞在記」(2日目)

松崎町は那賀川を中心に構成されている。半島中央部に位置する大鍋越(おおなべごえ)峠は、東に向かって河津町に流れる河津川、南に向かって下田市に流れる稲生沢川、そして西に向かって松崎町に流れる那賀川との分水嶺になっている。本州には日本列島を日本海側と太平洋側にダイナミックに分割していく分水嶺があり、その地域性を知る手がかりのひとつだが、賀茂地区は、これらの川によって特徴づけられるかもしれない。それぞれが町の発展に寄与してきた恵みの川となっているのは間違いない。
松崎町には那賀川の南にもう一本、岩科川という川が流れている。本日は某ミュージアムの企画運営を担うスーパー学芸員C氏とともに、主に岩科方面を訪れたのだった。
岩科川流域にはかつて岩科村があった。昭和31年に松崎町と合併するのだが、こちらでは明治の頃に養蚕が盛んだったそうで、村人の寄付金で建設された岩科学校と呼ばれる小学校が現在は重要文化財として平成の改修を経て公開されている。裁縫室には松崎が誇る鏝(こて)絵師、入江長八の手による138羽の鶴が部屋の欄間部分一周に描かれている。空色の青地に鶴の舞う欄間に、えんじ色の床の間、その隣の壁は緑色で装飾され、ギョッとするくらいラブリィな空間となっていた。明治のカワイイ文化に突然浸る漢二人なのであった。
入江長八(1885-1889)は漆喰を用いてレリーフ状の壁画や半立体絵画を多数制作した、ワンアンドオンリーの左官職人である。その才能に共鳴したのかどうかわからないが、長八美術館は異彩を放つ建築家、石山修武による設計である。クセの強い者同士を混ぜたら危険な気もするのだが、お互いの個性がぶつかりあって飽きない展示空間となっていた。
長八作品は松崎町内各地にある。入江長八は独自の技巧で漆喰塗を芸術に高めたクラフトマンだが、そのスポンサーとなる豪商が当時の松崎町には多くいたということでもある。松崎町は漆喰のなまこ壁が有名であるが、その外壁だけでなく、内部まで無料で見学者に開放している建物が多い。とある旧呉服問屋の、二階の数寄屋造りの部屋にある川本月下の襖絵など間近で見られて眼福なのだが、幾分不用心にも思う。人口が少ない分ノーガード戦法で対応しているのかもしれない。松崎や岩科にはこのように隆盛期に教育や芸術に投資したおかげで、街の文化レベルが現在も高いように感じるところがあった。
一方で、伊豆石と呼ばれる建築用石材を切り出した室岩洞という史跡にもいってみたのだが、こちらはうって変わって肉体労働の辛さを想像させた。賃金はあまり高くなかったんじゃないのかなと勝手に思ってしまったが、実際はどうなんだろう。江戸から昭和まで採石していたそうなのだが、急峻な山道をおりてたどり着いた、岩肌が四角く削られリアルマインクラフト状態になった無人の石切り場は、漢二人でもちょっぴり怖いところなのであった。