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山本晶大「蒲原散策(2日目)」

昨日降っていた雨のあともなく、今日は日差しが暖かく心地よい天気。東のほうには雲がかかっていて富士山は残念ながら見えない模様。

10時に豊永さんとすこやかセンター(福祉施設)を訪れて、蒲原応援隊の人々の話を聞かせていただく。蒲原応援隊というのは、草むしりやゴミ出しなど日常的な家事を行えなくなった高齢者の方などの依頼を受けてちょっとした雑事をボランティアで請け負う集まりとのことで、毎週水曜の午前にすこやかセンターの一室を借りて事務局を開き、依頼の電話が事務局にかかってきたらボランティア登録されている各地域の方に連絡をして、ボランティアに向かってもらうというシステム。利用者は500円のチケットを購入して依頼を行うが、これは無料だと依頼することを遠慮してしまう人が多いので、利用してもらいやすくするために500円のチケット制を導入したとのこと。名簿を見させていただくと事務局の人々もボランティアの人々も70代前後の人が多く、利用者は70~80代以上の方が多い。

2日目すこやかセンター

この水曜日に開かれる蒲原応援隊の事務局には、蒲原でNPOや様々な市民活動を行っている中心的な人々が集まっており、ここでのちょっとした雑談から次の活動の方針が決まることも多いそうだ。ちょうど私が伺ったときには、蒲原地区連合自治会長の服部さんが昨日お聞きした小中一貫校の統合案の図面などを持ってきていて、統合と共に新築される校舎についての話題などで盛り上がった。

その後、稲葉さんの車で蒲原を案内していただく。蒲原の東に位置する富士川河口付近は、1940年に田園のあった平野にアルミニウム製品などを製造する日本軽金属の工場ができて以来、それに付随する中小の工場や職員の住居が立ち並ぶ工場地帯及び新興住宅地となった。蒲原に二つある駅の内の新蒲原駅は、この工場地帯へ通勤する人を当て込んで作られたもの。工場の北に位置する山には巨大なパイプが斜面に沿って這っており、SF的な様相を呈している。これは富士川上流の水をパイプを通して工場まで引き込み、落差を利用した水力発電でアルミニウム製品の製造に必要な膨大な電力を賄っているものだとのこと。

2日目パイプライン

蒲原に来る前に、少し蒲原や日本軽金属のことについても調べたが、日本軽金属は蒲原に大きな経済効果をもたらしている反面、山梨県で日本軽金属が管理している雨畑ダムの堆砂問題や、同じく山梨県にある日本軽金属が出資しているニッケイ工業という採石業者がアクリルアミドポリマーなどの混ざった産業廃棄汚泥を雨畑川に流したことなどによる富士川の環境汚染で、蒲原の特産品であるサクラエビが不漁になっているのではないかと現在大きな問題にもなっている。

河口から海岸線にかけては高さ15m前後の防波堤がそびえ立ち、砂浜にはテトラポットが並ぶ。昔は海で泳ぐ人々も多かったそうだが、現在は蒲原の沿岸は全て遊泳禁止。この延々と続く堤防とテトラポットと太平洋から作られる風景は私の故郷である高知県の沿岸とよく似ている。だが、驚いたことに蒲原は太平洋に面しているにもかかわらず、津波による危険性はあまりないとされているらしい。同じように15m以上の堤防を作っていても津波を防ぎ切ることができず、市街地の大半が津波の被害を受けると予想されている高知とは大違いだ。

2日目富士川河口

河口と海岸線を見た次は、山間の方に連れて行っていただき、中尾羽根自然公園を見学。旧東海道を中心とした市街地のことばかり念頭に置いていたので、山間の方は連れてきていただかないと訪れることができなかっただろう。この自然公園は、稲葉さん達が子供が自由に遊んだり作ったりするための場所として管理しているとのこと。公園に置かれている木でできたステージや遊具なども子供達と一緒に作っている。現在ある遊具はもうだいぶ朽ちてきているので、壊してまた子供達と一緒に作り直す予定だそうだ。子供が怪我をしたり保護者からクレームが入ったりするリスクを恐れて、公園から遊具が消え、学校でも工具を使用した工作などの授業がどんどん消えていっている流れの中で、こういう取り組みはとても意義があり重要だと思う。

2日目自然公園

その他、行政機構の入っている蒲原支所や市民ホールなどが入っている交流館、蒲原駅、蒲原の隣町である由比との境にあるスーパーなどを案内していただいたあと、稲葉さんや豊永さんと分かれて一人でぶらぶらと蒲原を散策する。

蒲原の古い民家は典型的な町家造りのものが多く、庇が街道に面して並び、間口が狭く奥に向かって長く広がる、うなぎの寝床と称される間取りになっている。ほぼ昔の姿のままと思われる町家から、一見新築のように見えるリフォーム物件まで様々だが、古い町家をリフォームしたものか建て直された新築物件かどうかは、屋根の作りを見たらおおよその検討がつく。すべてがそうというわけではないが、庇が街道に面し、出桁や登梁などの特徴がある家は古く、逆に屋根の妻側が通りに面している家は昭和前後以降に建てられた比較的新しいものであることが多い。

2日目出桁登梁

2日目本町会館

蒲原の町家を見てまわるときは、雨戸を収納する戸袋にも注目してみて欲しい。東海道によるかつての繁栄の名残りか、幅広の一枚板を贅沢に使用した戸袋や、意匠的な銅板張りの戸袋など、美しく興味深い戸袋を見ることができる。

2日目一枚板戸袋

2日目銅板戸袋

また、蒲原にある特徴的なものとして、石造りの蔵や建物がある。街道から少し外れて脇道や小路を歩いていると石造りの蔵を度々見かけるが、これはそれだけこの近辺に地震などの災害が少ないことを示唆している。もちろん地震が全くないわけではなく、1854年(江戸末期)の安政東海地震では蒲原近辺は甚大な被害を受けている。現在残っている古い町屋のほとんどが安政以降に建てられているのも、安政東海地震によって倒壊した家を建て直したものが残っているためだろう。その後、1944年にも東南海地震が起き、蒲原では最大震度5~6くらいだったそうだが、100年に1度ほどの頻度でやってくる東海地震以外は目立った災害が少なく、そのため日本ではあまり見かけない石造りの蔵や建物が残っているのだろうと思われる。

2日目石造蔵

現在宿泊している「燕の宿」というゲストハウスは国登録有形文化財である志田邸の裏にあり、宿泊している建物の横には志田邸の石造りの蔵がある。ゲストハウスオーナーの大澤さんから聞いたところによると、これら石造りの蔵に使用されている石は、伊豆の石切場から産出されたものらしい。

夕食は木下さんたちのおすすめで「やましち」というお寿司屋へ。私は甲殻類アレルギーがあるので、残念ながら名産であるサクラエビが食べられなかったが、晩ご飯にいただいた清水および蒲原近辺の特産であるマグロと生しらすの海鮮丼はとても美味しかった。ここの女将さんもとてもアグレッシブな方で面白い。特産品であるいわしの削り節を使ったカレーや、着物の帯をリメイクした商品など、次々と新しい商品を作り出していて、作ったものをとても楽しそうに説明してくださった。

2日目やましち

今もまたちょうど試作していた新しい料理があるということで、試作中の手巻き寿司を食べさせていただいた。海苔の上に酢飯、静岡産わさび、蒸した茶葉、蒲原の特産品のいわしの削り節を乗せ、醤油をつけていただく。茶葉の苦味といわしの削り節の香りのバランスが程よく、そのあとにわさびがツンと鼻に抜けていき美味しい。日本酒に合いそうな美味しさだ。

昨日今日と、紹介されてお会いした方々はとても元気で行動的。そして愛想よく歓迎的にお話ししてくださる。その背景には多くの旅人を受け入れてきた東海道の歴史や文化も関係しているのかもしれない。

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