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関根愛「無題(巡り)」(まとめ)

 

巡 礼 

ここで暮らしていたかもしれない自分。ここに暮らすかもしれない自分。またここに来るかもしれないこと。もうここにはこない、これないのかもしれないこと。旅は可能性の海に入りその水を無尽に泳ぐこと。海は丸いから泳ぎ切ることなど永遠にない。旅に終わりはない。

旅は私たちに考えてもしょうがないことをいつまでも考えたり、感じていてもしょうがないことを無限に感じたりすることを許す。何もしないでもいいということを学ぶ。旅は人生の練習のためにある。人生は「しょうがないこと」のためにある。

インドの僧侶で思想家のサティシュ・クマールという人の言葉で「人生とは巡礼に他ならない」。巡礼とは色々な場所を巡り、聖なるものに接近しようとする行為。人生とはしょうがないことを感じ、思って、過ごすことで聖なるものへの接近を図る巡礼の旅なんだろう。


あ る こ と

今回のアート・ワーケーションには「巡る」という方向性のなさがあった。

目的地はあるようでない。巡りつづける中でここへ辿り着き、巡り、ここを出てまた巡りつづける。ゴールはない。学校では「巡ること」より「ゴールすること」を優先する教育をされた。必ずひとつの答えを見つけるよう指導された。算数や理科で一定の答えを導き出せというのはまだ分かるとしても、国語や英語にまで正解(模範解答)があった。それは信じられなかった。多様性が消し去られないと成立しない世界ではとても生きられない。多様性とは何か。色んな人がただ「ある」ことだ。

ずっといつまでも巡りたい。巡っていたい。そのために生まれてきた。四季があり万物が変わりゆく中で私もただその一部でありたい。今回のワーケーションは「巡り」を大切にするものだった。成果物を求められることはなくただ巡り、そこにあることを。

三島の「あひる図書館」で見つけた本*に書かれていたサティシュの言葉を引用する。「We are human beings, not human doings」。私たちは何かをするためではなく、ただあるためにある。「する」ことには常に成果や成功という評価がまとわりつく。ただ「ある」ことはそれだけで充足であり完結する。ただあることはそれだけで美しい。この三島でひとりきりで食べるところを撮影させてくれた八人の人々の姿がそれを教えてくれた。私たちはあるためにある。

また「ある」ということは、巡り、変化をする存在であるということを受け入れることでもある。まるで人生そのもの。人生は巡るもの。巡らなきゃ。


〈 巡 る 〉





大きな木がある。隣り合う葉も、決して隣り合わない葉も、みなでひとつの大きないのちを生きている。同じ風に揺られている。旅にでると、そのことを思う。

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*「サティシュの学校-みんな、特別なアーティスト」(ナマケモノDVDブック)2018

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