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荻野NAO之 【伊東市 day6】 「獣と家畜と人と」
また朝となった、6日目である
天と地がうまれ、空と時がうまれ…大地と海と植物が生まれ、太陽と月と星々がうまれて、魚と鳥がうまれ、伊豆半島創世記、いまは獣と家畜と人である
富士山を眺めながら伊豆衝突帯の上を旅し、伊豆半島の創世に想いを巡らす中で、数千万年、それどころか数十億年にわたる月日の旅を想いながら、うまれるとは・創造とは何だろうかと問いながら旅をしてきて、いま動物に想いを巡らせている
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どんな旅にもその旅のはじまりがあり、でもほとんどのケースは、旅のはじまりがどんなだったか明確には分からないのではないだろうか…
今は当たり前のようにして対の概念と認識されている能動態と受動態
これは言語の中枢に入り込んだ現代の思考の基底だが、かつてのヨーロッパ言語では、能動態ではなく、「中動態」が受動態と対をなしていたという
そもそも純粋に能動的ということがあるのだろうか?神でもない人に、創造主でもない人に、純粋な意味での能動が起こりうるのだろうか?
ここ伊東市で、他の旅人と面白く3人で旅をしている際、食事時になると「何食べる?」という当たり前の楽しい会話になる
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「あれがいい、これはどうか?」と、どれもおいしいランチなどを思い浮かべながら能動的に発案しているようで、実はホストの方々からいただいたきめ細やかなおすすめリストによっていたり、たまたまさっき通りがかった時に目にした看板の料理名に反応していたりと能動的とは言い難い…かといって受動的なのでもない感じである
國分功一郎さんだったか、例に出していたものがわかりやすい
試験管に「いま前の人の解答用紙をのぞき込んでカンニングしただろう!」と言われた際、「見たんじゃない、見えちゃったんだ」というこの「見えた」が中動態的で、「見る」能動とも、「見させられる」受動とも異なる佇まい
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日本の文化に「連」という素敵なものがある
連歌のように、または日々の「さようなら(ば…)」といった挨拶のように、途切れずに繋がりが合って、能動でもなく、受動でもなく、中動態的に我々旅人は旅の中を生きているのではないか…宇宙創世時からのエネルギーの流れが息づいているように感じられる伊豆半島を旅していて動物たちの目を見ていて、そんな連なりに改めて気がついた
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4日目の時に少し触れた人創造の工房の地元の作家さんは、愛を基本テーマにすえて彫刻の旅を続けている方だった
彼はまず粘土を捏ね、数々の動物や植物、そして人間をいだしていた
そこから鋳型を作り、どんどん彫刻を生みだし増やしていた、そしてこの伊東市の街のいたるところにそれらの彫刻は満ちていた
公園から、道から、橋の上から、宿屋の中の温泉風呂の中にまで…
彼の彫刻の人間たちはよくよく繋がっていた
曰く、あるとき娘さんがどこかで展示されていた彫刻を触って怒られたのがきっかけで、彼は触れる彫刻を作ろうと思った、触れるためには壊れないものでなければいけない、そうしてみんなが繋がっている彫刻となった
触れるようにするために繋がっていったのだという、これははなはだ良いことだと思った
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彼は言った、これらの彫刻は何千年も残るんです、と…
宇宙から旅をしてきた金属元素で鋳造されたそれらの人間や動植物は何千年も先まで残って、何を見ていくのだろう?
「天地は万物の逆旅にして、光陰は百代の過客なり」
李白の言う、旅人である光陰には何が見えているのだろう?、われわれ旅人には何が見えているのだろう?、そんなことを想う夕となった
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