秋野 深 「旅人アーティスト達の葛藤」【小山町】(6日目)
私はどこかの団体に所属して写真家活動をしているわけではないので、日頃、同業である他の写真家の方にお会いする機会ですら非常に限られる。
ましてや、他のジャンルの表現活動をされている方にお会いすることはさらに稀だと言っていい。
今回のマイクロ・アート・ワーケーションでは、同じ時期に同じ自治体に滞在する他のアーティストとの交流も目的の1つに位置づけられている。
過去に他のアーティストとの交流をそれほど経験してきたことがない私のような者には、どんな交流があるのか、全くの未知数だった。
この小山町に滞在していたのは、私以外に陶芸家の北野藍子さんとアーティストの佐藤悠さん。
ここまでの6日間で3人が顔を合わせたのは、初日のウェルカム交流会、2度の町内散策、5日目のキャンプ場でのキャンプファイヤー、今日のフェアウェル交流会。
佐藤さんとは、同じ須走エリアに滞在していた間、2回夕食をともにする機会があった。
こうして3人が顔を合わせた日程を確認してみると、思っていた以上に回数は多いものの、もっと様々な話題についてお互いに質問をしたりする時間と機会をしっかり作ることができれば、というのが私の実感だ。
ただ、時間が少ないながらも、お二人の活動についての葛藤や思いを、滞在前に思い描いていた以上に知ることができた。
陶芸家の北野藍子さんは、今回の小山町の滞在中に、草木染のワークショップを開催されている。
彼女にとって、「陶芸」と「草木染め」の位置づけはどういうものなのか。
私からのそんな質問がきっかけで、「仕事」「趣味」「好きなこと」についての話になった。
陶芸は、仕事であり、趣味であり、好きなことでもある。
そして草木染は遊びで、自分のホームは陶芸。
陶芸と草木染の間を行ったり来たりすることでバランスをとっている・・・というような表現をされていた。
さらに、陶芸家として作品を販売する時、もちろん仕事なので値段をつけるという作業が発生するわけだけれど、そうすると、陶芸を大切な「趣味」「好きなこと」としても取り組んでいるのに、そこから気持ちが離れて行ってしまいそうになる・・・とも語っていた。
表現活動のジャンルや、仕事の仕方は当然違うにせよ、私自身はどうなのだろう。
自分自身の表現活動、仕事、収入、趣味としての意識、そもそもそれが好きでやっているという気持ち・・・こうした諸々のことについて、線引きやバランスをどう考えているのか、ということを何度か3人の旅人アーティスト間で話していて、今回改めて意識させられたことがある。
それは、私には、表現活動とは関係のない前職の存在がはっきりとある、ということ。
どうもこの違いが大きいのではないか、という気がしてきた。
表現活動などという発想は微塵もなく新卒で就職して、いくつかの企業でいくつかの職種を経験した後に、写真家として食べていくことを目指してスタートした。しかも、どうやったら写真家になれるのかなんてことも何もわからず、聞く人もいないまま。
今振り返っても、「趣味」「好きなこと」を仕事にする、つまりプロになる、それを職業にすることが目標だった。だから、北野さんの表現を借りると、私は写真家として食べていけるようになってからも、その後ずっと基本的に「仕事」「趣味」「好きなこと」がそれほど離れずにセットで動いている、と言えそうなのだ。
私の場合は、「趣味」「好きなこと」を「仕事」として成立させること自体も重要な活動の一部で、そのための過程を経験することも含めて好きなこと、と言えるのかもしれない。
アーティストの佐藤悠さんについて私が関心を持ったのは、彼自身が取り組んでいることを人に説明するのが非常に難しい、という点だ。
彼とは初日と2日目に2人で話をする機会を持てたけれど、彼の活動を私が誰かにうまく説明できるなどとは全く思えない。
私なりに解釈できたと思ったことをここで書いたとしても、もしかしたら全く解釈すらできていないことを証明しているだけになりかねない。
ただそれでも、1つだけ、彼と交わした会話のなかで、理解でも解釈でもなく、きっともっとその前段階にある吸収の入口とでも言うのか、それらしきものがあったような気がしている。
それは、「ゴール(結果)」と「プロセス」についての話だ。
最終的に形あるものを作り上げる「モノづくり」の場合は、それが一応のゴールということになる。
佐藤さんの取り組みには、このゴールがないのだという。
便宜上、ゴールを設定することはあるようだけれど、基本的にはないそうだ。
では、結果ではなくプロセス重視なのですね、と多くの人は受け取るだろう。
私も最初そう反応した。
ところが、プロセスというのはゴールを想定しての道筋のようなものだから、それも少し違う、ということになるようなのだ。
ゴールを想定するものでもなく、どこかへと向かうことを前提にしたプロセスのようなものすらないのだ、と。
彼の取り組みに対する私の吸収の段階は今のところそのあたりをウロウロしている。
吸収のスタート地点にいるのかどうかさえわからない、というのが正直なところだ。
佐藤さんは、説明が非常に難しいと自覚している自分の取り組みについて、いつも言葉を丁寧に探しながら、話をしてくれていた。
そうして彼自身も、「自分は何をやっているのか」を自問しながら、時に何か確認をしようとしているようにも思えた。
佐藤さんも小山町滞在中にワークショップを開催している。
タイトルは「作りたいものを作ったり、作らなかったりする会」。
難しいと感じることに出くわして、それをどうにか理解しようとするとき、自分の頭の中の引き出しをあちこち開けては中身を引っ張り出す行為が始まる。
見当違いのものを出してきたのに気が付かなければ誤解になりかねないし、うまく当てはめたり比較ができたりすると、少しずつ理解が始まったりする。
でも佐藤さんの取り組みの奥にあるものをどうにか私なりに吸収(理解という言葉はここではそぐわない気がする)しようとすると、おそらく自分の頭の中に新しい引き出しを作るところから始める必要があるのかもしれないと思った。
それは強烈な異文化体験にも似ている。
その体験は、これまで蓄えた自分の引き出しの中身ではどうも当てはめられないらしい、当てはめない方がよさそうだ、という気づきから始まる。
その気づきがないままに、何かを強引に当てはめ続けようとすると、それが時に誤解や衝突や優越感や劣等感のようなものを作り出してしまうのではないかと私は考えている。
自分の頭の中に新しい引き出しを作り始める。
これほど痛快な体験はない。
北野さんはこれから、「仕事」「趣味」「好きなこと」の関係について、陶芸家を続ける中でどう折り合いを見つけていくのだろう。
佐藤さんはこれから、彼自身の取り組みを説明する言葉をどう模索していくことになるのだろう。
2人の葛藤や紆余曲折が続くことは想像にかたくない。
それで・・・おまえ自身はどうなのだ。
このマイクロ・アート・ワーケーションでは、他のアーティストとの交流が期間中の大切な活動の1つと位置づけられている。
その意義の大きさを、最終日を迎える前に、今ひしひしと感じている。
Jin Akino
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