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おきなお子 第2日目 桃源郷と海底

なぜ、太宰治は『斜陽』を伊豆で書いたのか。
なぜ、川端康成、夏目漱石、三島由紀夫、、、多くの文学者はこの土地を訪れ、伊豆文学を生み出していったのか。
本日は、この土地でしか味わえない何かを探してみました。

日の出頃、ホテルから坂を下って10分で宇佐美の港へ。
早くも漁船が波の穏やかな海に出て、港での朝の営みがはじまっていました。海に新しい陽の光が映るのを眺め、湾の向こうを走る電車の音が耳に届く静かな時間を味わいました。
バタバタと始まるいつもの日常とは、別の世界。自然から1日がやってくる。

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そして、海を覗くと小さな魚がたくさん、海面に口を出してお食事中。
それが、プクプクと泡となって見える。
ん?!  海の中の様子が見える?!  海水なのに、澄んでいる。驚きました、綺麗すぎ。

そのあと、太宰治が『斜陽』の一章、二章を書いた旅館、安田屋旅館へ。
『斜陽』の一章には印象的な蛇のエピソードがありますが、これは『斜陽日記』そのままの場面です。しかし『斜陽日記』では、69頁で描かれますが、『斜陽』では13頁に登場します。ズバッと。
そして、伊豆の山荘へ引っ越すのは、戦火を避けるためで、この作品は、戦争が大きな時代背景となっていますが、読み直している今現在、ウクライナ情勢が極度に悪化しているのを受けると、戦争というものへの距離感が変わって迫ってきました。

車を走らせ10時前に到着した安田屋旅館は、10メートルと離れない距離に三津浜の海と、咲き誇る河津桜が望める場所に立っていました。

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残念ながら休館でしたが、小さな趣ある当時のままの旅館を眺め、きっと太宰も創作さなか散歩にも出ただろうと、周辺を散策しました。
波がほとんど立たない穏やかな海。そして、覗き込むと海底まで見える!!
なんて、透明度。
伊豆では海の透き通りは「ふつう」なのだろうか。
もしそうなら「やばい」財産。

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そして、3箇所目の海はぐるりと回って、大瀬崎へ。
こちらの海はこのnoteトップの写真です。ほんとうに海とは思えない透明度。大瀬海岸には、たくさんのダイバーが潜っていました。確かに、このままドボンと潜りたくなるくらいの海。沖縄にも勝るほどではないかと思いました。すぐ深くなるのも魅力です。(沖縄は遠浅の海岸も多いですよね)
そして、崎の先端まで歩くと、海の守り神・引手力命神社と、伊豆七不思議の大瀬明神の神池があります。

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木彫りの龍が見事で、両脇から波の音が聞こえる神秘的な雰囲気の神社は、684年に建てられたとのこと。1300年以上前!!
そして神池の水はなんと、淡水。これだけ海が近いのに、不思議です。
大きな鯉が悠々と泳ぎ、亀が甲羅干しをしていました。  

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昔から海の恵みを受けてきた伊豆半島。
山もあり豊かな自然に囲まれていて、確かにここへ足を運ぶと、伊豆時間に浸る=日常から解放されて五感が開く、そんな感じがあります。

この土地でしか味わえない何か探し、最後は伊豆と季節からの贈り物、河津町の満開の桜でした。ソメイヨシノよりも濃い桃色が町を一気に染めて、もう圧倒的な春爛漫。ずっと目を見開き深く呼吸し、写真を撮りまくってしまいます。
川沿いに850本の桜、全体では、8000本もあるそうです。そして、この桜はこの町で発見されました。

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春がひと月も前に来て、半島ならではのぽかぽかアイランド気候。
この色に包まれるこの場所が日本の現実にあるなんて、まるで桃源郷だと思いました。
しかし、河津桜は1955年の発見なので、太宰治が『斜陽』を執筆した昭和22年(1947年)には、見られなかった絶景です。
もし、彼が目にしていたら、きっと描いていたのではないでしょうか。

最後に “なぜ、太宰治は『斜陽』を伊豆で書いたのか” の疑問には、もう一つの答えがあり、下曽我の太田静子に一週間訪ねた後、疎開している友人の田中 英光がいる三津浜に滞在し、書き始めています。

2日目の旅行きは、伊豆半島の他に類を見ない観光資源と気候を味わい尽くしました。幸せジャーニー。また、明日も。

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