奥野晃士「訃報」(5日目)
今回のMAWに参加するため三島に出かけるまさに直前も
静岡芸術劇場から横山仁一さんとはZOOMで話したことは「マエノリ」(0日目)にもちらっと書いた。
その時
「奥野さん今どこにいるの?」と問う横山さんに
「劇場のホワイエでーす」と言って
夕日に映える富士山をカメラで映すと、
「綺麗だな〜」と言ってくれた。
SPACに入団する前から、
私は大阪で劇団を主宰する傍らで
シアタースポーツという即興劇にも取り組んでいたので
SPAC入団一年目の夏休みに、
シアタースポーツの総本山
シアタースポーツ生みの親キースジョンストンが設立した
ルースムースシアターのパフォーマンスをこの目で見るため
カナダのカルガリーに一人で行ったのだが、
その時ちょうど開催されていたワークショップに参加するためにカルガリーに来ていた
横山さんとレセプションで出会った。
横山さんのお名前は東京の演劇界では有名だった。
俳優堺雅人さんを輩出した東京オレンジ主宰で、
数々の即興劇の大会やシアタースポーツショーを彼は企画していたので
私も何度か公演を観に行ったことがあった。
年齢も確か一つ上くらいで意気投合したことも大変光栄だった。
横山さんと知り合えただけでもカナダまで来た甲斐があったなと思った。
翌年の夏の富山県利賀村での演劇祭で横山さんと再会
私はSPACメンバーとして
演劇祭スタッフと訓練と作品のクリエーションで
夜中までみっちり演劇地獄の合宿中だったが、
横山さんと顔を合わせて挨拶するだけで心が和んだ。
その後も
東京に行った時には連絡して横山さんの稽古場にお邪魔したり、
横山さんが演出をする公演を観に行ったり………していた。
やがて私もSPACで主役をやらせていただくようになり、
怒涛の日々を送っているうちに疎遠になったが、
昨年だったか、
私が10代の頃に入門し、寮に入って修行生をしていた
心身統一合氣道の会報に
会長の藤平信一先生と横山さんの対談が組まれていたのには驚いた。
即興劇といい、合氣道といい、
私の中で演劇をやる上で核のような部分で共鳴できる演劇人は
他にはなかなかいなかった。
今年の春から折に触れて連絡を取るようになり
オンラインでの参加が多かったが
堺雅人さんはじめ東京の演劇人と交流しながら
知識や経験を深めるアカデミックな環境を横山さんは提供してくださり
その勉強会はとても刺激的で新しい発見が多かった。
その講座の中で、横山さんはよく
心身統一合氣道の稽古場で思ったことや感じたことを引き合いに出して
演劇との関連性を口にしておられた。
合氣道によほど影響を受けたのだろう。
その度に私は我が意を得たりという気持ちになる。
Facebookの写真もいつの間にか氣の書に変わってた。
合氣道の3級に合格したことも報告してくれた。
横山さんの手引きでなかなか直接お話しできなかった
藤平信一先生ともお話しする機会を得ることができた。私も横山さんの取り組みの主旨に賛同し、
定期的に連絡を取り合い、
他愛もないメールのやり取りもしつつ交流をはじめたが
横山さんは常にクールで淡々と仕事を前に進めていたので
素晴らしいなと思った。
そんな矢先の横山さんの突然の訃報に
私の思考を停止し、何も手につかなかった。
午前中佐野美術館に行くつもりだったが
とても外出するような気分ではない。
横山さんにはまだまだやりたいことがいっぱいあったであろう。
日本の演劇界の発展にも寄与してくれていたことだろう。
娘さんも小さいので、父親として夫として
家族を幸せにもしたかったであろう。
そんな横山さんのご冥福を祈るしかできない自分が不甲斐ない気持ちになる。
しかし悲しんでばかりもいられない。
塞ぎ込んでいるだけなんて、横山さんも喜びはしないだろう。
「Work on」
ブルースリーがノートに書き綴ったあの言葉が私の心の中から沸き起こる、
私は今三島市民と交流するためにこの街にいる。
そんな私にも全うすべき責務がある。
演劇人としてさまざまな方々に演劇を届けたい。
午後
そうして決意も新たに装束を身にまとい獅子頭を被り
三島の街に繰り出した。
横山仁一さん
あなたのもたらしてくれたものを大切にし
遺志を受け継いで、
私も与え続けられたらと思います。
心よりご冥福をお祈りします。
合掌
奥野晃士