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カトウマキ「私のものさし」(まとめ)

1週間という短い期間ではあったが、焼津市の色んな場所に行き、色んな人々に出会い、そして、多くのことを感じた。頭の中の情報が散らかっているため、整理しようと出来事や思ったことを、付箋紙ほどの大きさの紙に一枚ずつ書いてみると、その数76枚となった。この膨大な出来事や感想をまとめられるのか、自分を試されているように思うが、チャレンジしてみることとする。

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焼津市は、私の住む静岡市から車でたった30分ほどで到着する。だけど、空を見上げれば自衛隊の飛行機が飛び、ふんわりと鰹の燻した香りが漂う。1週間焼津に滞在すると、静岡市がなんだか遠くに感じられ、旅に来ている感覚が大きくなった。それでも、ラジオやテレビをつけると静岡市と同じ音や映像が流れ、静岡市の感覚に戻ると思いきや、これすらも私自身ではなく機械がおかしいのではないかと思うほど、私の心も身体も焼津を感じていたように思う。
私はこれまで宿泊して滞在制作をしたことがほとんどない。リサーチや制作のため現地に通っても宿泊はほぼしてこなかった。宿泊するしないに関わらず、リサーチを行なっていた時間は変わらないであろう。だけど、現地に「通う」と「泊まる」というのは、これほどまで感じ方や感じる量が違うのかと驚いた。


冒頭に静岡市から30分ほどで焼津市に着いたと述べたが、この「距離」について、この旅で引っ掛かる点が多かった。″焼津市の大きさはちょうどいい″という言葉が、違う人達から何回か聞かれた。何か事をはじめるのに、ちょうど良い大きさらしい。そして、3日目に訪れた大井川の土手沿いは焼津駅から車でおよそ25分であり、その距離は私にとって、″近い″と感じた。そしてもう一つ、私にとって焼津市は海に″近い″と思っている。だけど、″海にそんなに近くない″と感じる方とも出会い、人が思う距離の感覚に興味をそそられた。滞在中、旅人の冬木さんにそのことを話すと、生まれ育った環境で距離感覚が決まるのではないか?と助言を受けた。その通りだなと思い、私の距離のものさしは、私しか持っていないんだと気付かされた。この記事を読んで、ものさしの違いなんて当たり前だと思うかもしれないが、人によってこの違いが存在するという事実を十分に理解しておくのは大切だと思う。

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ある方が、「同調圧力」が日本はあるんじゃないかと言っていた。同調、誰かの意見に賛同しなければいけないような感覚。それは私にとって、何も言わない行為が、同調していることだとも思える。私の個人的な感覚ではあるが、焼津市(静岡県の海沿いの街)の人々に地震や津波についてどう思っているのか話してはいけないという圧力を感じ、そのことについて私も聞いてはいけないと思ってしまっている。

もう一つ自分についてわかったことがある。それは「受け入れる」ことの難しさだ。ある方が、障がい者と健常者が通う学校に通われていたと話していた。障がい者の方を私はどこまで受け入れられるのだろうと思いながら話を聞いていた。実は私の祖父も身体が弱く、子供ながらどう接していいのか戸惑っていたことを思い出したからだ。

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この旅の中で心地良かった時間は、雑草を描いている時であった。描く中で、太陽の暖かさと風の冷たさ、行き交う人の気配や話し声が聞こえ、富士山や鳥たちが黙って周囲を見つめ、海はたぷたぷと揺れ、音や匂いにどんどん気づいていった。それは、私にとっては特別な時間であった。そして、毎回思う。雑草は、どんな場所でも″全て″を受け入れ、生きる選択をする、と。雑草は本当に凄い。そして、美しい。

私も雑草のように、どんな場所でも受け入れられるような、器の大きな人間になるべきではないか。″多様性″を求められるこの時代、思考をもっと柔軟にしなければならないのかと考えた。この旅の途中、そのプレッシャーもあったのか?、そして毎日はじめましての環境に自分を追いやったことで、緊張が溜まってしまい、腹痛で眠れない夜があった。

その時、ふと気付いた。全てを受け入れたいけど、それは私には出来ない…と。でも、私は雑草に魅力を感じるし、凄さも分かっている。この世界に雑草が好きという人の方が少ないであろう。そう、″誰かの苦手なことを私は受け入れられる″のである。それで十分じゃないか。そして、誰かが誰かの苦手を受け入れていって、それが繋がっていけば、それでいいんじゃないか(それだって多様性になるのではないか?)と気付き、そしたら気持ちが楽になった。

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花沢の里で、登山者に向けてコーヒーと焼き芋を振る舞ってくれた年配の男性いた。会話をそれほど多くしなかったが、お孫さんであろう小学生の女の子が、おじいちゃんのことが大好きなようで慕っていた。その光景だけで、男性の人柄が伝わってくる。この男性のことが今でも、気になっている。それはきっと、会話が少なかったこともありこの男性と私の間には″余白″があったからであろう。正直、この旅で何も話さないものとの対話が心地よいとも感じていた。雑草や、風、鳥、海、山。何も話さない者たちとの対話は、気を使うことなく過ごせる自分がいた。日頃、作品でも″余白″を表現の一つと捉え描いているが、作品だけでなく、私自身も″余白″を求めていることが改めてわかった。

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私は、全てを受け入れるのは難しいが雑草を人より受け入れられること、自分には余白が必要だということ、こういったことは、自分のものさしの一つ一つだと考える。ということは、私はものさしをいくつか持っている。それは私だけじゃなく、みんなもそうだ。それも、「距離」のことで触れたように、それぞれものさしの基準や長さも違うであろう。測る方向も人によってきっと違う。今回の旅で、新たに私のものさしが出来たように、人は経験を重ねて、それによりものさしも出来ると考える。経験をするのは辛いこともあるだろうけど、自分のものさしがなければ自分の考えすら持てない。ものさしが無ければ、同調圧力へと繋がってしまうのではないかとも懸念される。だから、私はこれからも色んな場所に行き色んな人と出会い、多くの雑草たちと時間を共有し、ものさしを作っていきたい。その際、人それぞれ持っているものさしも、長さも違うんだということを忘れないように注意していく。そしてこれからも、自分のものさしで表現を続け、誰かの気づきになれるような作品を作っていきたい。


ある方がこんなふうに言っていた。前提としてみんなそれぞれ違うってことを理解する。その上で相手の話をよく聞く。


この旅で勉強になったことが、もう一つある。例えばやり方を分からない者同士が何かやるとする。そうすると、分からない者たちは自分事として捉えて、状況をよく見てよく調べたりして、作れるようになる。かえって、その内容に長けてる者や先生がいない方が良くて、メゾットも無い方が良いと。このマイクロアートワーケーションがそれに、該当するように思う。アーツカウンシルしずおかも、ホストも、旅人たちも、この事業について何かよく分かっていないように思うからだ。(←失礼を大変申し訳ございません。)だがその分、さまざまな角度から、観れたんじゃないかと思った。この事業に参加させていただき、心から感謝したい。ありがとうございました!!

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この「まとめ」では、自然と自分の内面に向き合っていった。焼津市で出会った人々や、雑草、海などの自然がそうさせてくれたのだと思う。気づかせていただき、教えてくださり、ありがとうございました!

最後に、ホストの一般社団法人トリナスの土肥さん、大変お世話になり有り難うございました!また、ぎんちゃん、みきとさん、PLAY BALL!CAFEさん、KURISANCHIさん、高橋さんご家族、他にもお話ししてくださった皆さま、ご協力してくださった皆さま、ありがとうございました!そして、旅人の冬木さん、成清さん、ありがとうございました!冬木さんとは一緒に行動することが多く、学ばさせて頂くことが沢山ありました。

皆さま、本当にありがとうございました!!
それでは、失礼いたします。

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