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苦難の旅立ち・第一部

【この手記について】
 2025年1月現在、侵攻下のガザで整形外科医として働き続けるフサム医師が、自身の体験と葛藤をひとりでも多くの人に知ってほしいと願い、激務の合間に書き上げたのがこちらの手記です。読まれた上で何かを感じられた方は、ぜひシェアしていただけたらと思います。フサム医師についての記事はこちらからご覧いただけます。
※フサム医師のご意向により、手記は全編無料としていますが、お読みいただいた後に直接寄付へと繋がる有料記事ボタン/チップを文末に設けております。常に他者を優先し、ご自身はギリギリの生活を続けているフサム医師へ、どうかあたたかいご支援をよろしくお願いいたします。


これは、私たち家族がガザ北部で過ごした最後の3日間についての物語です。この手記を通して、私たちが経験したことを読者に少しでも知ってもらい、死の兵器が悪人の手に渡ったときに放たれる恐怖に光を当てたいと思います。また、人種や国や言語に関係なく、私たちをサポートしてくださる全ての方に、私たちの抱く大義の正当性への信頼を深めてもらいたいと願っています。私たちと共にいてくださる皆さんは、暗闇を照らす希望の炎です。
                        〜フサム医師より〜

1日目

2023年11月19日(日)
 戦争*が始まって42日目のことでした。病院が占領軍に包囲され、戻ることができずに離れてから10日が経っていました。当時、私たちは両親、兄弟、その配偶者、子どもたちとともに叔母の家に滞在していました。私たちの家は、近所やその周辺とともに、戦争が始まって3日目に破壊されました。

 戦車がガザ北部のどこに進攻してきたのか、はっきりしたことはわかりませんでした。インターネットは10日間遮断されていましたし、地元のラジオは20日以上前に放送を停止していました。私たちが頼りにしていたのは銃声だけで、その音量から距離を推測する力は、ガザが長年にわたり攻撃を受け続けてきた中で〜時には家のすぐ前での戦闘もあった中で〜身についた技術でした。

 午前6時、音はそれまでで最も大きくなりました。ある者は、砲撃はまだ海岸近くで1キロは離れていると言い、ある者は戦車は我々から3キロは離れていると言いました。ある者は東からの攻撃だと言い、またある者は北西か南西だと主張しました。彼らはあらゆる方向から進撃し、死と破壊を撒き散らしていたのです。

 午前9時、母と妻と妹は薪の火でパンを焼いていました。調理用のガスは1ヵ月間使えず、電気は38日間止まっていました。兄が息を吹きかけたり、ビニールの切れ端で火をあおったりして、火を絶やさないようにすると、部屋に煙が充満しました。

 私たち以外の者は、戦争とその不確かな未来について議論することで精一杯でした。そのとき突然、耳を稲妻がつんざくような音が走りました。ロケット弾や爆発音には慣れていましたが、これは違うものでした。

 殺人戦闘機からミサイルが投下されたとき、まるで口笛のような音がしました。でもそれは、いつものように次第に消えていくのではなく、より大きく、より鋭くなっていったのです。静寂が私たちを包みこみました。それから2秒ほどで家が激しく揺れ、鼓膜を破くような爆発音が続き、空気は粉塵で満たされました。瓦礫が四方八方に飛び散り、女性と子どもたちが悲鳴を上げました。私はミサイルが中庭に命中したと思い、「私たちはまだ生きている 」と自分に言い聞かせました。

 私は妻のヌールに向き直り、生後7ヶ月の息子アブードを抱っこしながら彼女の手を握りました。他の子どもたち、マリクとミラは彼女にしがみついていました。ヌールは声を震わせながら、「子どもたちと外に飛び出しましょう」と言いました。私が「怖がらないで」と答えると、彼女はもう一度、「行きませんか?」と尋ねました。私は 再び「いいえ 」と答えました。

 すべてが1分足らずの出来事で、何が起こったのかまだわかりませんでした。第2、第3の攻撃はないと察して、あわてて階下に降りると、向かいの家が灰になっていました。瓦礫の中に34人の男女と子どもの遺体が横たわっていました。

 その日の夜、ヌールは私に 「なぜ逃げなかったの?」と尋ねました。
私は、「何トンもあるミサイルを相手に2、3秒で何ができたと思う?家族で身を寄せ合って死んだ方がましだと思ったよ。」と答えました。

 そんな耐え難い一日は延々と続きました。窓の前に立つと、昨日まで路地で赤い自転車に乗っていた子どもが、いまは瓦礫の山の下に埋もれているのがわかりました。数え切れないほどの実存的な疑問が頭をよぎりましたが、そのどれもに答えはありませんでした。

 その夜、私たちは20人全員で一つの部屋に寝ることにしました。
母は「一緒に生きるか、一緒に死ぬかですよ」と宣言しました。少なくとも今夜死ねば、私たちの遺体を遠くまで探しにいく必要はありません。

 私は寝床の近くで夕べの祈りを捧げ、しばらく祈りの為の敷物の上にいました。いつも神に懇願するためではなく、不安なときは神をより身近に感じるために、ただ敷物の上に座ってクルアーン(コーラン)の詩を数編読むのです。その静かな数分間は、散らばった考えをまとめ、精神を落ち着かせるのに役立ちました。私は神の力、知恵、意志について考え、人生がどんなに困難になっても、それは神の知識と思し召しによって展開されるのだと悟りました。

 浅い眠りが2時間ほど続いた後、ほとんどの者が目を覚ましました。爆発音はさらに大きくなりました。それまでは、多くの攻撃は少し離れたところからでしたが、私たちのすぐ近くでもありませんでした。

 しかしその夜、爆発のたびにガラスが砕け散る音と破片が落下する音がしました。揺れのたびに、私たちはどの通り、どの家、どのモスクが攻撃されたのだろうと推測しました。こうした推測は、標的が私たちと同じ普通の家だったという現実から目をそらすための無駄な試みでした。おそらくその瞬間、私たちと同じような家族が、私たちと同じように祈ったり、議論したり、ただただ待っていたのでしょう。

 父がラジオをつけると、晴天時にはアラビア語や外国の放送局の敵の放送が流れることもありました。しかしその夜は、すべての周波数が敵の同じメッセージを伝えていました。ガザ北部全域が戦闘地域となり、住民は南へ避難しなければならないという警告でした。

 私たちがこの録音を耳にするのはこれが初めてではありませんでした。
戦争中繰り返し録音され、携帯電話に送られ、テレビで放映され、飛行機がビラとして投下していました。

 しかし私たちは1948年のような想いを二度と味わわないと決意しました。その当時、シオニストの民兵が私たちの祖父母を殺人や放火によって強制的に土地から追い出し、今日まで彼らを難民としているのです。
 デイル・ヤシン、サブラとシャティーラ、カナといった大虐殺の記憶が私たちに付きまとっています。私たちは歴史に刻まれた、あるいは歴史によって忘れ去られた大勢の人々とともに、それらの物語を暗記していました。しかし、私たちは決して忘れることはありません。

 その夜、時間は凍りついたかのように、真夜中と朝の3時の間のどこかで止まっているようでした。私たちは不安な気持ちで「明日の日の出さえ見られたら」と静かに祈りました。しかし、誰ひとりとしてそれが本当に叶うなどとは思っていませんでした。私たちは、あの爆撃のいずれかが私たちに降り注ぐと確信していました。なぜそうならなかったのでしょうか?あらゆる音が、私たちと同じような家や通りを爆弾が襲っていることを示していました。

 階下には、親切な叔母と物静かな叔父が、二十代の息子たちと一緒にいました。前の晩、私たちは皆、ガザ南部への避難を考えていました。
「この戦争が終わるまで、あと2日かせいぜい1週間だろう」と自分たちに言い聞かせていました。「間違いない、戦争はほとんど終わったんだ。彼らは全てを破壊し尽くしたのだから」と。
 その当時の破壊は今の10%にも満たないものでした。それでも、私たちはそう話していたのです。

 結局、全員が残ることに同意しました。可能な限り耐え忍ぶんだ、おそらく戦争はすぐに終わるだろう。テレビでは、いくつかの国が占領軍に攻撃を止めるよう圧力をかけていると報じていました。


第二部へつづく


補足:文中では原文の"war"を戦争と訳していますが、実際には戦争ではなくジェノ サイドであると、国際的な人権団体アムネスティ・インターナショナルなどでも報告されています。



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