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『 おばぁ録④ 』 ~ おばぁの昔 ~

祖母が生まれたのは、大正時代13年。関東大震災が起きた翌年だ。しかし祖母から聞く歴史の話に大事件は出てこない。

祖母:「北海道の旭川に住んでいて、お父さんは銀行員だったの。黒壁に囲まれた家に住んでたわ。あの当時では、お金がある方の家だったと思う。家には″ねえや ″もいたわね。ぼんやりだけど、覚えてるわ。川を渡った所に嫁いでいったな。あっ、で、10歳の時に私のお父さんは死んじゃってね。風邪だと思ってたら、肺炎だったのよ。あっという間だった。小さかったからよく覚えてないけど。そのまま女郎屋なんかに売られなくて良かったわよ。戦死したお兄さんが頑張ってくれたんだろうねぇ。」
私:「それは悲しい幼少期だったね。次は、もう少し大きくなった時のことを教えて!学生の時は、どうしてた?どんな所で遊ぶの?」
祖母:「学校は、女学校まで行ったわよ。セーラー服だった。でも、どんな勉強したかなんて、覚えてないわ。英語は、敵の国の言葉だって教えてもらえなかったわね。学校が終わったら、直帰よ。まっすぐ家に帰るの。あの頃は学校帰りに寄り道して帰ったら不良よ。クラスにそういう不良っぽい子が1人や2人いたけど、近づかないようにしたわ。」
私:「えっ~。学生なのに、つまらなくない?」
祖母:「昔は、学校から帰ったらすぐに宿題してたのよ。居間に丸い″ちゃぶ台 ″っていう机があって、そこに輪になって宿題するのよ。お兄さん、お姉さん、みんなが。そうやって、宿題しているのに、私だけ居なかったら、あいつはどこだ?ってなるじゃない。目立つじゃない。」

私:「へぇ、偉いね。おしゃれは?若い頃に流行ってた事とかないの?」
祖母:「宝塚なんてのは西の方だし、北海道だからねぇ。ちょうど戦争だったし、流行ってたことなんて無いわよ。髪型は、あんたみたいなオカッパだったかな・・・・。あ、珍しかったことといえば、デパートに地下フロアが出来たって聞いた時は友達と見に行ったわね。」
私:「えっ?地下フロアを?」
祖母:「昔は、地下に部屋なんて作る発想がないからね。土の下っていえば、床下に漬物とか置くぐらいで、″部屋 ″っていう感覚がないのよ。だから珍しくて見に行ったわね。その内、戦争で防空壕を作ったから土の下も珍しくもなくなったけどね。」
私:「地下フロアなんて当たり前だから、珍しがる感覚が新鮮。」
祖母:「今は当たり前でも、昔は当たり前じゃなかったものなんて、たくさんあるわよ。今でも覚えてるんだけど、小学校の時、階段で遊んでいたら、先生が言ったのよ。『皆さん、いずれ動く階段ができますよ』って。その時は、動く階段なんて出来るわけない!!って信じられなかったけど、エスカレーターは、今じゃ当たり前だもんね。先生が言ったとおりになったわ。」

私:「そうなんだ。エスカレーターも無い時代からスマホの時代までって、大変化だね。」
祖母:「そうよ。未来がどうなってるかなんて、来るまで分からないわよ。」
私:「うんうん。次は、お嫁入りの時を教えて。」
祖母:「戦争が終わって、男たちが外地からドバーっと帰ってきたでしょ。それで、和寒にいるお爺ちゃんとの縁談話が来て、嫁いだのよ。米屋だっていうから、お米がたくさん食べられるぞって言われてね。汽車に乗って移動したわね。お爺ちゃんは長男だったから、結婚式は3日間あったね。」
私:「3日間も?楽しかった?」
祖母:「楽しくないわよ。ずーっと、下向いて座ってたんだから。今みたいに、女はペラペラ喋らないのよ。」

私:「そうなんだ。嫁いでからどうだった?お姑さんは怖くなかったの?」
祖母:「お姑さん、あんたのひい婆ちゃんは優しかったよ。気配りが出来る人だったねぇ。わたしの親戚が遊びに来た時は、お餅をついてくれて、お米をお土産にしてくれたの。もてなしてくれたのよ。舅のひい爺ちゃんも、その時は家のお米を使っても、うるさく言わなかったわね。」

祖母:「ひい爺ちゃんは、商売に明るくてお金を持っていたけど、家計に厳しかったの。親戚に貧乏な子がいてね。ひい婆ちゃんは家に呼んでご飯を食べさせたり、よく面倒を見てたんだけど、ひい爺ちゃんは、『また、タダ飯に米やって!!』とか『また呼んで!!』とか怒ってたわ。」
私:「・・・・・。時代劇みたいな悪代官だね。本当にいるんだ。」

曾祖父が、怖い人だったと分かった所で、ちょっと一息をついて、お土産
に不評だったバームクーヘンを二人で食べた。その時、私が袋をビリっと
破いてグシャグシャにしたのを見て、祖母が言った。

おばぁ録⑤へ続く→

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