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それはコミュニケーションを円滑にするための道具なのか


最近よく「ホモソーシャル」という言葉を聞く。

同性同士の性や恋愛を伴わない絆や結びつきを表す言葉で、とりわけ男性同士のそれにおいて使われることが多いらしい。特に女性や同性愛を蔑視し排除することで成立する男性の関係性のことを言うようだ。


今放送中の朝ドラ『虎に翼』を観ている。少し前の放送回で、"女性を蔑視しなければ男性社会の中でうまく生きていけない男性" という、男性にとっての生き辛さも描いていた。
本当は女性蔑視なんてしたくないが、仕方なくとはいえそういった行動を自らとってしまう。しかし本当の自分や嘘の自分なんてものはなく、そのどちらもが自分である、ということまで作中で言及されていた。


たしかに、とりわけ学生時代に、男性が嫌々ながら他の男性たちの悪ノリや言動に合わせるところを見たことがある。

中学時代に付き合ったいた男の子がいた。偶然か必然か、学校行事の合唱コンクールで彼は指揮者、私はピアノ伴奏者となった。その役割の者たちはどうしたってクラスでの練習を取りまとめる立場となる。

中学生はまだまだお子ちゃまなので、真面目に歌うのが恥ずかしいやつもいるし、練習中にふざけるやつもいる。今思えば、歌いたくないやつには歌わせないでおけばいいし、みんな好きにすりゃいいと思ったりする。全員が全員やりたくて行事に参加しているわけではないのだし。
しかし当時の私は、自分のクラスのパフォーマンスが良いものであってほしかった。


指揮者の彼はまぁ真面目な方ではあったし、自ら立候補して指揮者になっていたので、ふざける男の子たちにも注意したりしてまとめてくれるのではないかと勝手に期待していた。
でも彼は他の男たちと一緒になって悪ノリをすることが多かった。

中学生にはあるあるかもしれないのだが、
「ちょっと男子!ちゃんと歌って!」
と怒る女たちと、
「あいつらうぜー」
とますますおふざけを加速させる男たちの構図が完成するのである。

私は彼の言動をとても不満に思い、付き合っているくせにとても嫌いになってしまった。彼はバカになって全力でふざける様子でもなかったのだ。周りの男たちの視線を気にしつつ、ヘラヘラと迎合する様が見て取れたから腹が立った。

彼は合唱以外でもそういうところが多かった。ヤンキー同級生に対して陰口を叩いているくせに、ヤンキー本人の前ではヘコヘコする。
世渡り上手といえばそうなのだが、そういう煮え切らなさにめちゃくちゃムカついたし、ヤンキーの方がよっぽど気持ちのいい奴だと当時の私は感じてしまった。

嫌なら嫌、練習して欲しいなら練習して欲しい、俺も本当はふざけることに全振りしたい。そうはっきり言えばいいのに。
けれどきっと彼らにしかわからない男社会ってものが既に存在して、うまくやらないと生きていけなかったのだろうと今は想像できる。


男社会と同様に、女の社会も正直かなり面倒だ。
「ちょっと男子!」
と怒鳴っている女たちにも社会があって、
「本当は歌なんか歌いたくない。」
と思っていた人もいたのかもしれない。だけど声のデカい女たちに目を付けられると面倒だから、擬態していたのかもしれない。


女ばかりの社会で生きるのは苦手だ。好きでもない女たちと群れたいわけではないし、女同士の面倒臭さに塗れなければならないのなら一人で居たいタチだ。できることならそうしたい。
だけど誰かに悪口を言われるのは死ぬほど怖くて、結局迎合している風にして立ち回るのがオチだ。
私が指揮者の彼に腹を立てていたのは、自分自身の嫌いな部分を見ているようだったからかもしれない。


一方で私は、男同士でバカに全振りしてわちゃわちゃふざけ合う様や、男性同士の精神的な繋がりの深さのようなものを、大学生になったくらいの頃から羨むようになっていた。それは明らかに女性蔑視を含むような前述したホモソーシャルのそれではなく、人と人として向き合っている(ように見える)関係性に対してである。
(わちゃわちゃに関しては、ただのバカなノリが羨ましかっただけで、辛いけどそのノリをやっていた人もいたのかもしれない。)

同時に、どう頑張っても私は男性同士の中には入れないと感じていた。どんなに人として好きでも、異性だとどうしても入り込めない部分がある気がしてしまうのだ。それは同性であっても他者である以上同じことなのだけれど、持って生まれた身体の違いや、社会の中で男と女で分けられ育てられた立ち回り方の違いなど、そういったものから来ている気がする。それはもしかしたら単なる嫉妬かもしれないが。


私は、所謂世間が求めるような女らしい振る舞いや女性性を体現することができないし、したいとも思わない。いつの頃からか、自分の女性性を強く認識させられる状況に立たされると自分に嫌悪感を抱くようになっていたし、かと言って男性になりたいわけでもない。自分を女性だと自認しているものの、性を超越したただのヒトとして居られたらいいのにと何度も願ってきた。

そして自分の女性性を意識せずに、相手が異性だろうが同性だろうが、まっさらに関係性を築ければ良いのに、と思わざるを得なかった。


そう願っているにもかかわらず、そして迎合する人に煮え切らなさを感じていたのにもかかわらず、私は今、女性同士の社会で生きていくために迎合することが多々ある。

それは職場の女性同士における「ホモソーシャル」的なものである。

仕事なので、不満も出てくるし、愚痴もあるのは仕方がない。私も愚痴くらいある。合わない相手が1人や2人いることは目を瞑った方がいいのかもしれない。

だけど、気に食わない異性の相手を「あいつはバカだ」「クズだ」などと陰で称する人がいるのだ。そこまでいくと正直聞いていて辛い気分になる。

近しい者同士の愚痴を聞くのは苦手だ。知らない誰かに対する愚痴なら問題なく聞けるが、関わりのある者同士のものだとあまり気持ちのいいものではない。愚痴や不満を建設的な解決策に変換できればいいのだけど、愚痴が人格否定に近かったりすると本当に辛い。だんだん、自分も陰で言われているのだろうな、と余計な被害妄想まで生まれてくるし、実際に言われているだろう。

だけど女性同士だと(女性同士に限ったことではないかもしれないが)、お互いに対する不満や本音を直接はなかなか言い出せない。少なくとも私は言えない。正直に伝えたことをお互いの関係性構築のためと前向きに捉えてもらえる自信がない。
だから陰で言う、という現象が起きるのだろうけど、陰で言うなら、全く別のコミュニティで吐き出したい。


苦手な相手であっても仕事は仕事なので、できるだけ円滑に柔和なコミュニケーションをとりたい。そんな時に、女性同士がタッグを組んで男性の誰かを否定することは女性同士の絆が強固になったような錯覚に陥らせるのだ。
私も男性の誰かの仕事ぶりに対して否定的意見をあげることで、女性の同意を得ようとしていることがある。その自分の言動に気付くと反吐が出そうになる。
本当に気持ちの悪い、関係性の構築方法だ。というか、そんなやり方で結局関係性の構築などできてはいない。上辺だけうまくいってる風になればいいと思っているからそういう行動が生まれるのかもしれない。

それに愚痴が苦手と言いながら、こんなところでこの事実を書いていること自体がそもそも破綻しているのだよな。人間の矛盾だと言えば綺麗事過ぎるだろうか。


上辺の関係構築に、第三者の否定を取り入れているのも自分。
第三者に対する人格否定を聞きたくないのも自分。
煮え切らないやつに腹を立てるのも自分。
だけど同様に迎合してしまっているのも自分。


恥ずかしい話しだが、『虎に翼』でもあったように、どれも本当の自分なのだろう。
平野啓一郎さんの「分人主義」でもあったが、いろんな自分(分人)が居る中で、どの分人が好きか。私は自分がされて嫌なことをナチュラルにしてしまっている分人が大嫌いだ。もっと飄々と、且つ律して生きたい。人生の中で好きな分人で居る時間を出来るだけ長くしたい。


今回、散々男だ女だ、同姓だ異性だと書いてしまったが、ただの人と人。出来るだけそういうつもりで人と接したい。
愚痴は建設的な解決へと変換したい。
可能な限り気持ち良く仕事をしたい。だけどそのために誰かへの愚痴や排除を道具に使いたくはない。
もっと人間として強く優しい人でありたいのだが、果たしてそういう分人を増やしていけるのだろうか。


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