【短編ファンタジー小説】サクラハラハラ散る朝は
「休憩ありがとうございましたー」
香帆は両腕をさすりながら、レジ横をすり抜けてバックヤードに入った。ショートボブのサラリと揺れる首筋から、冷気がブラウスの中に入り込む。バッグをしまい店内に戻ると、展示用のベッドの端にちょこんと座るカナリアさんに気がついた。
(おっと、まだいたか!)
カナリアさんとは従業員の間だけで呼んでいるニックネーム。ふんわりと頭を覆う白髪を、カナリアのごとく黄色に染めた、昔ながらのお得意様だ。
「やっぱりまだ日がかげると寒いわねー」
話しかけられて、香帆は心の中で小さくため息をつき、薄っすらと笑顔を返す。
「風、冷たいですよ。まだ4月の初めですもんね」
ここはこの町で唯一の布団専門店。先代の社長が店を構えてもう40年になる。店先にひな壇をあつらえ、タオルやスリッパなどを所狭しと並べる路面店だ。クッションもあれば、エプロンも入口のラックにひしめいていて、ここを雑貨屋だと思っている人も多い。200円のタオルを手にして奥にあるレジまで来た人が、今流行りのマットレスや掛布団が棚に並べられている様を見て、ようやくここは布団屋なのだと気づくのだ。
香帆は昨年の春に、実家のある山あいのこの町に帰ってきた。鮮やかに彩られる木々の緑に、心身ともに疲弊した心が救いを求めていた。1か月が過ぎた頃から仕事を探し、この店の求人広告に目が留まった。働き始めてからそろそろ一年が経とうとしている。
布団屋は不思議な場所だと香帆は思う。カナリアさんのような、高価な布団をたくさん買ってくれたお得意様だけではない。通りがかりにスリッパを選び、ふらりと店内に足を踏み入れた人が、なぜかくつろいで、先日行った桜の名所から始まって、夫の愚痴や孫の写真まで出してきて、とても楽しげに時を過ごして帰っていく。そういう人が多いのだ。睡眠という無防備な状態から体を守る「布団」というものに囲まれると、人は安心して心を開放するのだろうか。
「あんたにもアメあげようか?」
カナリアさんは、ポシェットの中からのど飴を出してきた。
(いや、それより早く帰ってくんない?)
心で軽く毒づきながら、香帆は片手を伸ばした。
「ありがとうございます! ごちそうさま」
香帆が30分間の休憩に行く前からベッドの上に座り込んでいるのだから、もう40分以上居座っている。ずっと相手をしていたらしいパート仲間の森山に目をやると、完全に笑顔が口元だけに固まっていた。
そりゃあ疲れるだろう。そういえば、カナリアはおしゃべりな鳥でもある。
そろそろ看板の電気をつける頃だ。香帆は店頭にあるスイッチをオンにして、店の外に目をやった。
随分と日が長くなった。商店街の入り口近くにあるこの店は、3時を過ぎると、向かいにあるドラッグストアーごと、6階建ての駅ビルの影にすっぽりと飲み込まれてしまう。辺りは一挙に薄暗くなるが、外に出てみれば、数軒先の路上は西日に明るく照らされていて、まだ日は落ちていないのだと実感する。
人の行きかう道路に出て、香帆は深く息を吐いた。見上げると、ビルに囲まれた四角い空はびっくりするほどまだ青い。飛行機が銀色に光を跳ね返しながら、狭い空のずっと高いところを横切っていった。
香帆が客に乱されたタオルをたたみなおしていると、子ども連れの若い夫婦が入ってきた。
親が布団を選んでいる間、幼稚園の年長くらいだろうか、女の子がベッドに上がり込んで、はしゃきだした。
「ほら、だめだって。こっちにおいで」
父親が両手を広げると、女の子は子ザルのように胸の中に飛びついた。
「重いって!」
そう言いながら、父親は娘をしっかりと抱きなおし、愛おしそうに娘の小さな頭にあごを乗せた。
香帆はフッと視線を外す。
(幸せだこと)
感情を伴わせないその言葉を蓋にして、浮上しそうな胸の疼きを心の底に押し込める。
香帆の両親は、香帆が6歳の時に離婚している。実家は母の親の家で、父は婿養子だった。その頃は祖父も生きていた。父は隣町で輸入雑貨の店を出していたらしい。父がいなくなるあたりだろうか、1階の居間から、語気の強い祖父の声が度々聞こえた。2階の階段の降り口に座り、怖くて悲しくて、立てた両膝をグッと胸に引き寄せたことを覚えている。香帆は父が大好きだった。
父が家を出て行って13年後、父は他界した。その間、香帆は父に一度も会っていなかった。機会はあったが、香帆は会わなかった。
母は父の話を一切しない。写真もない。だが連絡は取っていたのだろう。亡くなるまでの間、養育費はきちんと振り込まれていた。
香帆の家は土地持ちで、駐車場と家賃収入のおかげで、その後も香帆は予備校に通い、あたりまえのように大学に進学した。
卒業後は金融関係の仕事につき、家を離れて都内でひとり暮らしを始めた。
そこそこ美人でそつなく仕事をこなす香帆は、男性社員に人気があったが、心から好きになった人には妻がいた。
家庭を壊す気など微塵もなかった。パートナーはどんな人だろう、休日は何をして過ごしているの? なんて気にしたこともない。
ただ一つ重要なことは、彼にとって、自分がこの地球上で一番必要な存在である、それだけだった。
そして終わりはやってきた。
会うときは終電近くまで一緒にいてくれた彼だったが、いつの頃からか、会って早々に帰るようになった。香帆が意を決して問い詰めると、彼は言ったのだ。
「子どもができたんだ」
平静を保っていたつもりだったが、話を終えて喫茶店を出る時、椅子から立ち上がることができなかった。
彼は「だから別れよう」とは言わなかったが、香帆は丸2日泣き続け、結論を出した。
子どもに負けた。
事実がそう物語っている。親とはそういうものなのだと初めて知った。
香帆は積み上げたキャリアを捨てて、この町に帰ってきた。
(よかったね、愛されて)
父親に抱かれ、安心したように目をつむる女の子に、香帆は冷ややかな視線を向けた。
春まだ浅い夕方の冷気が、前面を開放された店の入口から足元に流れ込んでくる。そろそろ明日の配達の準備をする時間だ。配達票を見ながらバックヤードに置かれている商品を探し出し、店内のベッドの上に並べておく。ベッドも一応商品なのだが、狭い店なので仕方がない。
「香帆ちゃん、明日、車一緒に乗っていってくれる? 布団3組の配達があるんだ。マンションだから、もう一人いてほしい」
「はーい。いいですよ」
配達は男性社員の仕事だ。毎朝用意された配達の品を、布団屋のロゴが入った黄色のバンに詰め込んで、1日数件を普段は一人でこなしている。
「それに、香帆ちゃんのお客様の配達もあるじゃん。明日」
「ああ、そうですね。この人・・・」
香帆はバックヤードからケースに入った羽毛布団を取り出して、一週間前のやり取りを思い出した。
伝票に倉橋と名前を書いたその人は、40代くらいの男性だった。
その日はよく晴れた季節外れの暖かい日だった。朝、通勤途中にある桜はどれもようやく満開を迎え、香帆は晴れやかな気分で出勤した。通りを行きかう人たちも、気のせいか皆華やいで見えた。
倉橋は、香帆が昼休憩を終えたころ、ふらりと店に入ってきた。背が高く、長めの髪に濃いひげが口元を覆っている。ビンテージ風のジーンズを履いていて、ボタンダウンのシャツがセーターの丸襟からのぞいている。今どきのスタイルではないが、かえって新鮮でおしゃれな感じがした。
倉橋は珍しそうに店内をゆっくり一周し「ここが布団屋さんだったなんてね」と、声をかけようか様子を見ていた香帆に、いきなり話しかけてきた。
「そうなんです。実は布団屋なんですよ!」
ニッコリ笑ってそう言うと、倉橋も笑った。さわやかな笑顔だった。
「お布団をお探しですか?」
「うん、そうなんだ。いいよね、布団って。 寝る時そばにいられる」
どういう意味だろう。これは大人のジョーク的にとらえるべきか? などと、微笑みながら頭を巡らせていると、倉橋は真面目な顔を向けた。
「ここの布団屋さんで一番いい布団って、どれかな。やっぱり羽毛布団だろうな」
「そうですね。こちらですね」
これは思いのほか良い客かもしれない。
高ぶる気持ちを抑え、棚の上から店で一番高価な羽毛布団を下ろして、ベッドの上に広げた。ダウン率95パーセント。ボリューム満点の上等な布団だ。
「おお、これはあったかそうだな」
「はい、ポーランド産のマザーグースを使っています。こんなにふっくらしていても軽いんですよ。うちで最高のお布団です!」
「うーん。いいなあ。で、いくら?」
「はい。44万円です」
嬉々とした香帆の声に倉橋は無反応のまま、とぼけた顔をして「半分くらいのやつがいいな」と言った。
(やっぱりそうだよね)
香帆はつい声を上げて笑ってしまった。
涼し気な目元。鼻筋が通りすっきりと整っている。髭さえ無ければ、わりと香帆が好きな顔立ちかもしれない。
「こちらはどうですか?」
香帆は中段からもう一つ羽毛布団を取り出して広げてみせた。
淡い藤色のボーダーの中に、つる草が繊細なタッチで描かれている、香帆がこの店で一番好きな布団だ。ダウン率も生地も、キルティングも申し分ない。
この人に絶対これを買ってもらいたい!
気持ちが弾み、いかにこれが優秀な布団であるか、香帆は思わず夢中で説明した。倉橋は微笑みながら、香帆の熱弁を聞いていた。
「じゃあ、これにしよう」
「・・・はい! ええと、こちらは23万1千円になりますが・・・」
「いいよ。これにする」
あまりにあっさりと高価な布団が売れてしまい、心臓の鼓動が速くなる。まだ新米の販売員なのだ。
「カバー、プレゼントできるからな」
店長がそっと近づいてきて、香帆に耳打ちする。
そうだった!
「お客様、カバー、プレゼントさせてください! いい羽毛を選んでくださったので」
「いいの? それはうれしいな」
「はい! お好きなもの、どれでもいいですよ」
「うーん」
倉橋は後頭部をさすりながら、もう片方の手でカバーを選んでいる。暖系の明るい色ばかり見比べていることに気がついた。
「どなたの羽毛ですか?」
今さらながらの質問で、あとで店長に注意されることは間違いない。
倉橋は香帆に笑顔を向けたが、その顔がなぜか妙に寂しそうで、おもわずじっと見つめてしまった。だが、
「大好きな子」
その言葉に、抱いた違和感は吹き飛ばされ、香帆はまた声を上げて笑った。
「きっと喜ばれると思います!」
カバーを選び終え、満足した様子でベッドに近づくと、倉橋は広げてある羽毛布団のふくらみを手のひらでそっと押した。
「娘なんだ」
「え?」
「大学に合格したからさ、なにかお祝いしてやろうと思ってたんだ」
倉橋は少し照れ臭そうに鼻の頭をこすった。
胸の奥が疼き、詰まったものを流そうと言葉を繫ぐ。
「そうだったんですか! おめでとうございます!」
「うん、ありがとう。ちょっと遠くに行くからね、あまり会えなくなるんだ」
「遠くにですか」
「うん。仕事でね」
ああそれで寂しそうだったんだと香帆は思った。
「お嬢さん、幸せですよ。お父さんにこんな素敵なプレゼントをもらって」
微笑む心の内で、微かな妬ましさが頭を持ち上げる。だがそれが消えたのは、倉橋が今度は本当にうれしそうに笑ったからだ。
(幸せだ。こんな人が父親なら)
心底そう思う。切なさだけが香帆の胸をかすめていった。
支払いを済ませ、店先まで見送ると、倉橋は振り返った。
「ありがとう、林田さん!」
「え?」
倉橋は香帆の胸のネームプレートを指さした。
「ウチの娘もあなたのように素敵な人になってくれるといいな」
香帆は目を丸くして手のひらを左右に振った。
「私なんて大したものじゃないです。お嬢さん、もっと素敵な人になりますよ!」
倉橋は笑いながら「いや、あなたで十分です!」と言って、春の日差しが降り注ぐ光の中に、消えていったのだった。
(また会えるんだ!)
ベッドに置いた羽毛布団を眺めて、香帆は心を弾ませた。
「いい天気ですねー。空、青い!」
「ほんと。仕事している場合じゃないよ!」
店長がハンドルを左に切り、布団屋の黄色いバンは、隣町にある住宅街の大通りに入った。
丘の上に広がるこの町からは、周囲の景色が一望できる。春の山々は、芽吹いた若葉も色とりどりで、山桜の淡いピンクが差し色となり、まるで美しい織物を纏っているようだ。
数件の配達をこなし、布団3組の配達も終わって残りは2件。次は香帆の売った羽毛布団を倉橋家に届ける。
「次の角を左折。そのまま直進20メートル先、目的地です」
地図アプリの女性の声が、車を淡々と案内する。
洒落た家々が並ぶ少し先に、桜の花が道路に枝を広げているのが見える。
「あ、あの桜、公園があるんです。あの公園の手前の家。地図で見ました!」
「オッケー!」
「目的地に到着しました」と女性の声。
「うーん?」
「あれ?」
「表札の名前違うじゃん。倉橋じゃないよ。町田って書いてある」
「ほんとだ・・・なんで?」
店長は車を止めて、伝票を手にとる。
「番地はここだよな・・・」
道を挟んで向かい合う家の名前も違う。
「地図では公園と隣接してましたよ。おかしいなあ」
「まあ、店の地図も古いからな」と店長は鼻から息を大きく吐いた。
「最後の家、11時までにお届けなんだよね。ギリギリだなあ。香帆ちゃんここで下ろすから、この家見つけて届けておいて。このあたりなのは間違いないんだから。こっちが終わったら電話する。ちょっと待っててもらうけど、迎えに来るから」
「わかりました!」
香帆は車を降りて、羽毛布団を後ろから取り出した。黄色のバンが角を曲がり視界から消えると、香帆は首をひねり、伝票を片手に歩き始めた。
「もしかして道一つ間違えてる? この公園の向こう側の道かな」
飛び出し防止のポールの間を抜けて、香帆は公園に足を踏み入れた。
満開の桜に囲まれて、小さな子どもたちが走り回って遊んでいる。親たちはベンチに座り、話に夢中だ。真っ白なユキヤナギの花が波のように盛り上がり、隣には黄色い水仙の花が群れている。野鳥がさえずり、子どもの甲高い声が青空に舞い上がる春爛漫の公園の、なんと平和で穏やかなこと。自分とはあまりにかけ離れた異次元の空間に思え、香帆は足早に公園の真ん中を突っ切って、一つ向こうの道に出た。
公園の隣には、前庭の広い手入れの行き届いた家があった。表札は「坂田」向かい側は「仲谷」と書いてある。
「あれー、おかしいなあ」
家の塀に取り付けられた番地を確認しながら歩いていく。このブロックには間違いないはずだが、角を2度回ったら、さっきの道に戻るだけだ。
自分の家の番地を間違えるものだろうか。
香帆はスマホを取り出し電話をかけてみる。 コールが鳴りっぱなしで留守電にもならない。
軽い羽毛だとはいえ、長く下げているとさすがに辛くなる。香帆は羽毛布団を胸に抱え込み、隣のブロックの角を曲がった。
支払いは済ませてあるが、家が見つからなければ店に持ち帰るしかない。連絡を取って住所を確認し、再配達ということになるだろうが、その時香帆は、車に同乗はしていないだろう。倉橋にはもう会えないのだ。
なぜか寂しさが込み上げた。
(なにこの気持ち。いやいや、ありえない)
香帆は頭をブルブル降って「ったく、倉橋さーん」とつぶやいた。
その時だ。ふと前を見ると、ずっと先の路上に、桜の花びらが雪のように降っている。
「あっちにも公園があるんだ!」
香帆は桜を目指して足を速めた。
ブロックの端に、先程と同じような公園が見えてきた。枝を広げた満開の桜が早くも散り始めているらしい。風に乗ってハラハラと目の前に落ちてくる。公園の手前の家の表札を見て、香帆はようやくため息をついた。
「倉橋! ここだ」
木造の二階建て。建ててからけっこう時間が経っているのか、木製の白い外壁は、ところどころ塗装が剥げている。右手の公園に面した側は、打ちっぱなしのコンクリートで造られた駐車スペースになっていて、コンテナがいくつか無造作に積まれている。門扉から中をのぞくと、緑の庭木に囲まれた広い庭は、まるで早春の原っぱのようで味気ない。唯一玄関の脇にレンギョウの花が、好き勝手に黄色い花を溢れさせていた。
門のどこを探してもインターフォンが無く、香帆は門扉を押して中に入った。木製のドアに張り紙がしてある。
〈御用の方は強めにノックしてください。壊さない程度に〉
倉橋のとぼけた顔が目に浮かび、香帆はフフッと笑った。
こぶしを握り、ドアを強めにたたく。
「はーい!」
倉橋の声に心から安心する。車もないので留守かもしれないと思っていた。
「東山布団店です!」
ドアが開き、倉橋が満面の笑みで迎えてくれた。
「待ってたよ! ありがとう!」
「こちら、羽毛布団です!」
「ああ、来た来た!」
香帆はドア越しに、羽毛布団を手渡した。
「受け取りのサインを頂きたいんですが」
「いいよ。そんなとこにいないで中に入って! ああ、そうだ、時間ある? 今、紅茶入れたんだ。一緒にどう?」
「え? でも・・・」
「上等のやつ、飲み切ろうと思って、ここ一週間、ずっとこればっかりでね。おれ一人だから、気を使わなくて大丈夫だよ」
(いや、それ逆に大丈夫じゃないでしょ)
「あれ、そういえば林田さん、ひとりで持ってきてくれたの?」
「いえ、配達の手伝いで乗ってきただけです。あの、お家がわからなくて、私が探して、その間に他の配達に行くってことになって。終わったら迎えに来てくれます」
「家、分からなかった? 住所書き間違えたかな」
倉橋は手渡された伝票に目をやって、首をひねっていたが「それは悪かったな」とすまなそうな顔をした。
「でも、だったら時間あるだろう! 上がっておいで」
そう言うと、サインをした伝票を香帆に返し、倉橋はさっさと廊下の奥に消えてしまった。
「えっと・・・」
玄関に取り残された香帆は、「うーん」と唸りながらそっと靴を脱いだ。
10畳ほどのリビングは、焦げ茶色の板張りの壁が吹き抜けの高い天井までを覆い、渡された太い張りには大きなファンが取り付けられていた。天窓や、庭に面した二畳分の掃き出しの窓枠は白く、端に寄せられた薄緑のカーテンはアンティーク調のタッセルで束ねられている。少しだけ開いた出窓から風が緩やかに流れ込み、朝の陽ざしに照らされて、外観とはまるで違う、まるでおしゃれな古民家カフェのようだ。掃き出し窓の外の捨て置かれたような庭でさえ、なんだか素敵に見える。
「ああ、座って」
うながされ、香帆は壁側に置かれたワインレッドの皮張りのソファーに、おずおずと腰かけた。前には、分厚い一枚板のローテーブルが一つ。
「殺風景だろ? もうすぐ離れるからね。けっこう片づけたんだ」
「いえ、なんかとっても素敵です」
「そうかあ?」
倉橋は大きな白いマグカップに入った紅茶をテーブルに置く。
「はいどうぞ」
せっかくの紅茶にこのカップ・・・と思ったが、白地に紅茶の深い赤が美しい。
「いただきます」
口を近づけると、鮮やかな香りが鼻を刺し、おもわず深く吸いこんだ。
あ、この香り・・・。
「なかなかいいだろ?」
香帆の様子に倉橋は満足そうに笑った。
「この香り、知ってます! ウチの母が紅茶が好きで、私が一緒に住んでいたころは、コーヒーよりも紅茶が多かったんですよ。この紅茶じゃないかな。同じ香りがする」
「そうか、お母さん趣味が合うなあ。駅前の紅茶専門店でしか売ってないんだよ」
「そうなんですか」と言いながら、紅茶専門店などあったのだろうかと最寄りの駅前を思い浮かべる。
倉橋はローテーブルの向こう側にクッションを敷き、あぐらをかいて座り込んでいた。のんびりとした顔で紅茶を飲んでいる。
隣りが公園のせいか、時折木立を渡る鳥の声が、窓の隙間から響いてくる。静かで、深々とした紅茶の香りだけが、明るいリビングに漂っている。
「デッキを処分しちゃったから音楽がなくてね」と笑う倉橋。
この静けさが、なぜかなんとも心地いい。成り行きに任せて、ほとんど何も知らない男の家に上がり、ふたりきりで時を過ごしているというのに、なぜだかわからない。このまま何時間でもここにいたいと思ってしまいそうになり、香帆はハッと気を取り直した。
「みなさん今日はお出かけですか」
そう訊いてから、香帆は余計な質問だったと目線を下に向けた。それぞれの家庭にはそれぞれの事情があるものなのに。
「みんな忙しくてね!」
倉橋はさらりと答えた。
「林田さんは、ずっとあの布団屋さんに?」
「いえ、まだ新人です! 一年くらいですかね」
「そうなんだ」
「その前は東京にいたんです。一人暮らしをしていて」
「一人暮らしか。いいなあ。楽しかっただろう?」
ズキリと胸に痛みが走る。香帆は半分になった紅茶に目を落とした。
「いえ・・・そうでもなかったです」
短い沈黙の後、倉橋はカップをテーブルにコトリと置いて「そうか。大変だったんだな」と言った。
顔を上げた香帆は、倉橋の穏やかな目元にハッとした。好奇心など見当たらない、ほんわりと暖かい、早春の陽だまりのような眼差しだ。
掃き出しの向こうの庭に、桜の花びらがまたハラハラと散っている。
「好きな人がいたんです。大好きでした」
香帆は突然そう言った。そんなことを言い出した自分にひどく驚いたが、次々と言葉が心の底から溢れてくる。閉じ込めていた悲しみが悔しさが言葉に乗って流れ出す。込み上げそうになる涙を幾度も抑え、辛い気持ちを口にしながらも、香帆はうれしくて止まらなかった。
平気を装い抑えていた心が、どれほど自分を圧縮していたか、今まさに香帆は気づかされたのだった。
「そんなわけで、帰ってきたんです。この町に」
そう締めくくった途端、空っぽになった心に今度は後悔の念が押し寄せた。いきなりこんな話をされて、倉橋は迷惑ではなかっただろうか。
カップの底に目を落とし、それからそっと倉橋の様子をうかがった。倉橋はニッコリ笑って言った。
「よく頑張ったな。よく決断して帰ってきた。えらいぞ」
(え?)
香帆は突然、父親の温かい手のひらを思い出した。
『がんばったな、えらいぞ!』
遠い昔、幼い香帆の頭に優しく手を置いてくれた父のぬくもりが蘇る。
鼻の奥にツンと痛みが走り、今度こそ本当に涙が浮かびそうになった。
倉橋は、空になった香帆のカップに2杯目の紅茶を注ぐ。口に運び、香帆は顔を輝かせて倉橋を見た。
「桜のフレーバー。季節だろ?」
桜餅のような、新鮮で、微かな清涼感が鼻をくすぐるほの甘い香り。優しさが心に深く染み込んでくる。
「桜ってさ、蕾の時から愛されてるよね。みんな開花を心待ちにしてる。膨らんでくると、ああもうすぐだって。桜は春を連れてくるからな」
倉橋は紅茶を飲みながら、香帆に微笑んだ。
「そうですね。ようやく冬が終わるんだって、なんだかワクワクしますよね」
「ほんと、そうなんだ。満開の桜ほど気持ちを開放させるものって、そうそうないと思うよ。しかも散る時もまたいいだろ? 林田さん、花吹雪の中を歩いたことある? 息止まるよ、あまりにきれいで感動してさ」
「倉橋さん、桜、本当に好きなんですね」
「好きだなあ・・・。花が命を終える時でさえ、そうやっておれたちを楽しませてくれるんだから。桜はね、人に力を与えてくれるんだ」
香帆は微笑んだ。なんて素直な人だろう。
「夏はどうですか?」
「大きな日陰になってくれる」
「でも秋はどうかな。このあたりは朝晩の気温差があまりなくて、きれいに紅葉してくれないし、それに児童館の先生たち、こぼしてました。毎日毎日大量の落ち葉を掃かなきゃならないって」
「児童館?」
「放課後、子どもたちが遊ぶ場所ですよ」
「なるほど。うーん・・・。掃き掃除は確かに大変かもな」
倉橋が真面目な顔をして頷いているので、香帆は吹き出しそうになった。
「まあ、完璧じゃないってことだ。でもそれがまたいいんだな。その方が可愛げがある」
「そうなんですか? 人に迷惑かけていても、ですか」
「そうか。そうだな。でもさ、それを差し引いて余りある幸せを桜はくれるんだ。そこは許してほしいところだな。まあ、おれは児童館の先生方じゃないから、気楽なもんだけどね」
倉橋のとぼけた顔に香帆はクスッと笑みをこぼし、少し意地悪だったと反省した。
差し引いて余りある幸せ。
本当にそうだ。満開の桜の花を仰ぐと、その一瞬は、もうどうにでもなれと思えるほどマイナスの感情が吹っ飛んでしまう。
「私も桜、好きですよ。日本に生まれてよかったって思います」
そう言うと「おれもだよ」と倉橋はうれしそうに顔を崩した。
香帆はゆっくり紅茶を味わった。ため込んだおもりが溶けていくように、心がふんわりと軽くなる。本当にこんなに豊かな時間を過ごすのは久しぶりだ。
あ・・・。
掃き出し窓の外に目をやった倉橋の穏やかな顔を眺めて、そうなのだと香帆は気がついた。はっきりと覚えてはいないが、倉橋はたぶん父に似ているのだ。だからこんなにも安心できるのかもしれない、そう思った。
「すみません! なんか話聞いてもらっちゃって。それに、楽しかったです」
「いいんだよ! なんていうか、おれもうれしかったよ。娘ともこんな話できたらよかったなぁ。まあ話してくれるわけないだろうけど」
「そんなことないと思う。倉橋さん、いい父親だと思います」
倉橋はまた寂しそうに笑った。
「離婚してるんだ。もう娘にもずっと会ってない」
「・・・そうなんですか」
同じような話はどこにでもある。
「あの、お嬢さんに会いに行こうって思ったこと、今までなかったんですか?」
立ち入った質問だと思ったが、訊かずにはいられなかった。
「会いたかったよ。それはね。何度も娘の通う学校に行ってみようかと思った」
倉橋は眉を大きく持ち上げて、ため息と一緒に笑った。もうここまでだ・・・と香帆は自分を止める。
「あ、でもそのお布団、お嬢様のために買われたんですよね」
「うん」
倉橋は、床に置かれた羽毛布団を横目で眺めた。
「送ろうかと思ってたんだけど・・・明日持って行こうかな。直接」
「それがいいですよ! お嬢様に会って渡した方が絶対いいです」
ソファから身を乗り出して断言する香帆に、倉橋は目を細めて笑った。
「そうするよ」
ドアを開けると、明るい日差しが香帆を待っていた。
「ごちそうさまでした! 何だかとってもスッキリした。ありがとうございます」
「こちらこそ、紅茶付き合ってくれてありがとう」
「またこちらに帰ってきた時は、お店に絶対寄ってくださいね! 待ってますから!」
香帆は戸口に立ち、この一年で一番かも知れない笑顔を浮かべた。
「それはうれしいな」
倉橋も柔らかな笑みを返す。
「お元気で!」
背を向けて歩き出した香帆の頭上に、風に煽られた公園の桜の花びらが吹雪のように降り注いだ。
「うわあ、桜吹雪! ほんと、きれい!」
思わず息を止め,香帆は小さく声を上げる。
と、スマホが鳴った。店からだ。
「香帆ちゃん? ようやく出たよ。今何時だと思ってる? 何回電話したと思ってるんだよ」
いきなり店長に怒られた。
「すみません! って、ええー? 電話してたんですか?」
「とにかくもうバスで帰って来いよ。もう昼休憩だからな。おれもう迎えに行かないよ」
電話を切って、スマホの着信履歴を確認すると、店長のスマホから2回、店から2回入っていた。倉橋の家に1時間近くいたらしい。
なんで鳴らなかったのだろう。
香帆は首を捻ったが、とにかく急いで戻らなければ。香帆は少し下った大通りにあるバス停に向かって歩き出した。
「だから本当に鳴らなかったんです」
「わかったって。でもさあ、スマホ新しいのに変えた方がいいよ。繋がらないなんて最悪じゃん」
仏頂面の香帆から視線を外し、店長は弁当の蓋を閉めながら「まあ、本来は会社が持たせてくれるべきなんだけどな」と頭を搔いた。
「それと、これ!」
井上がビニールの手さげを掲げている。
「あ! しまった!」
「羽毛だけ持って行っただろう。車に残ってたってよ」
井上がニヤリと笑う。
(やってしまった!)
それは倉橋にプレゼントした掛け布団カバーだった。香帆はすぐに倉橋に電話をしたが、留守だった。
「おれ午後行ってやろうか?」
さっきの顔が癪に障り、井上の好意をぴしゃりとはねつける。
「いえ、私、仕事帰りに届けます。明日お嬢さんに持って行くって言ってましたから、今日中で大丈夫なので」
4月の初旬、夜はまだ冬の寒さを纏っている。丘の上の住宅街に向けて、香帆は電動アシスト付き自転車を軽快に走らせた。せっかくいい感じの別れ方をしたのにバツが悪いと思いつつ、また会えることにフクフクと喜びが湧いてくる。
6時過ぎに店を出る時は、まだ薄青い西の空に、夕焼け色に染まった雲が幾筋か棚引いていたが、今、香帆の上には満天の星空が広がっていた。
バス停を過ぎた次の角を曲がり、2本目の角に公園がある。その向こう隣が倉橋の家だと香帆はしっかり覚えている。
家々の窓に明かりが灯る街並みを抜け、バス停の先の角を曲がると、公園の桜が夜の闇に白々と見えて来た。
道にはみ出した桜の枝の下で香帆は自転車を降りた。
一つ大きく息を吐き、カバーを胸に抱いて倉橋の家の前に立つ。
門扉に手をかけようとして、香帆はぎくりと手をひいた。何か違う。
門扉の高さ? それとも植えられた木のシルエット? 駐車場に車?
街灯の灯りが届かない表札に目を凝らす。
(町田…?)
「え?」
香帆は公園を振り返った。中央にある街灯の光が透けて、桜の花が暗闇に幾重にも浮かび上がっている。
(そうか、ここ最初にナビが間違えた住所だ)
香帆はホッと胸をなでおろし、自転車を引いて朝と同じルートをたどる。
公園に沿って角を周りブロックの向こうの端まで来た時だ。
街灯の照らす十字路の真ん中で、香帆は呆然と立ち尽くした。
(私、どっちに行ったんだろう)
香帆は自転車にまたがり、ペダルをこいで、路地を右に左に曲がった。とにかく倉橋家は公園の隣にあるのだ。
息が上がる。混乱した頭を抱え、最初に来た公園の桜の下で、香帆は夜空を仰いだ。
(なんで? どうして見つからないの?)
気がつくと9時をとっくに回っている。
明日朝早く、もう一度来よう。きっと暗いから見落としたのだ。
ざわめく心を無理やり納得させて、香帆は自転車で丘を下った。
冷たい夜風が、香帆の冬物のコートを素通りして全身を回る。
白い月が煌々と輝く空の下、凍えるような寒さに抗い、香帆は肩に力をこめてハンドルを握った。
母が作ってくれた肉どうふを温め直し、香帆は食卓についた。
「なにこれ」
母が、カバーが入っている袋をのぞいた。
「お客様に配達し忘れたんだ。明日朝早めに出て持って行く」
「大変ねー」
母はマグカップを持って、香帆の隣に座った。
入れたてのコーヒーの香りが、肉どうふの上に乗ってくる。
「ねえ、おかあさん。紅茶、いつも飲んでるやつ、どこで買ってるの?」
「ああ、あれね。ネットで買ってる。前は専門店で買ってたけど、今は座ってても手に入るからさ」
熱いコーヒーをすすり、母は「なんで?」と訊いた。
「ううん、別に」
瞬きをすると、白いマグカップの中の鮮やかな紅茶がまぶたの裏に浮かんだ。
母が椅子の背もたれに体を預けて言った。
「おとうさんがね、好きだったんだ。あの紅茶」
ドキンと音がもれそうなくらい、香帆の胸が鳴った。
「へえ・・・そうなんだ」
薄っすらと記憶に残る父の顔が、倉橋に重なる。
紅茶の好みまで同じなんて。
胸の鼓動があまりに早く、香帆は思わず箸を止めた。
(やだ、私、なに考えてるんだろう。おとうさんはとっくに死んでるのに)
「・・・なんで急におとうさんの話? 今までなんにも話さなかったじゃない」
「そうね。なんでかな・・・」
母は首を傾げコーヒーを飲む。
背を正し、気持ちを落ち着けて、香帆は温かい肉どうふを口に含む。優しい甘さの林田家の味付けをモグモグと堪能しながら、香帆はふと思った。
ずっと訊けないでいたこと。今なら教えてもらえるだろうか。香帆は思いきって口を開いた。
「ねえ、ところでだけど、おとうさんってなんで出て行ったのかな? おじいちゃんと仲悪かったよね。ずっと知りたかったんだ」
母は戸惑った顔で香帆を見つめていたが、やがて少しの間目を伏せてから言った。
「うん…。仕事がうまくいかなくってね、おじいちゃんに随分お金借りてたんだ。なかなかちゃんとは返せなくてね、決まり事を守れないやつは出てけー!って」
「うわっ。ひどいなー。おかあさんも私もいるのに。まあ、あの人そんなだったよ。たしか」
母は顔をしかめて笑い、それからふっと表情を消した。
「おかあさんもついて行きたかったんだ。でもおとうさんがダメだって。ちゃんと成功したら必ず戻ってくるからって。待っていて欲しいってね」
「ふうん」
確かにそんな状態の父について行ったら、どんな悲惨な生活が待っているかしれなかった。解放されたい一心ともとれる父の言葉。だが、自分達を愛する故に放たれたもの。そうであってほしいと香帆は思った。
父と最後に別れた日のことを、香帆は覚えている。父と母と3人でどこかの公園に行った。満開の桜の花がきれいだった。
夜になり、降りた駅のホームで父は香帆を強く抱き「元気でいるんだよ」と言った。
(おとうさん、どこかに行っちゃうの?)
大好きな父がいなくなる。あまりに突然の展開で、香帆は恐ろしさで身を固くした。父の足にしがみつこうとした瞬間、母が父の胸に崩れ込んだ。声を殺して泣き続ける母の体全部が震えている。だから香帆は泣かなかった。ここで自分まで泣いてしまったら、きっと父と母はものすごく困るのだろうと思った。事の重大さを見せつけられ、香帆は自分の悲しみを飲み込んだのだ。香帆はただ、二人の横にひっそりと立っていたのだった。
「写真って…ないよね。捨てちゃった?」
「ううん、アルバムはあるけど、家建て直した時、どっかにしまい込んじゃった」
「別に嫌いになって別れたんじゃないなら、一枚くらいそばに置いていてもよかったんじゃないの? 娘のためにも」
香帆は菜の花のおひたしを箸でつつきながら、母を見た。母は申し訳なさそうに、香帆と目を合わせる。
「そうだよね。香帆のおとうさんだもんね。見たければアルバム探すよ」
「いいよ、別にもう」
香帆は黙々とおひたしを口に放り込んだ。母がひとりごとのようにつぶやいた。
「なんだろう。きっと無理だって思ったのかな。きっと迎えに来ないだろうって。だから、ちょっと捨てられた気持ちになってたのかもね。結局迎えになんか来なかったんだしさ」
「遺影もないし」
「そんな、死んだ人みたいじゃない」
「死んでるじゃない」
母は「そうだね」と言って小さく笑った。
「香帆こそ、急にどうしたの? 今までおとうさんのことなんか訊いてこなかったのに」
(いやいや、訊けない感じ出してたの、おかあさんだから)
香帆は呆れてため息をついた。
「別に、たいしたことじゃないんだけど、今日おとうさんに似た人に会ったんだよね」
「おとうさんに? 覚えてるの? おとうさんの顔」
「ちゃんとは覚えてないけど、ただそんな気がしたんだ」
「なにそれ!」
母の笑い声を聞きながら、香帆は口髭を生やした倉橋の涼しい目元を思い出した。
不意にもう本当に会えない気がして、一瞬胃のあたりが震えるように疼いた。
香帆は知らないふりをしたさっきの不可解な出来事を、茶碗に残った最後の一口と一緒に飲み込んで、朝の光の下であれば普通に家を見つけられるのだと、祈るように両手を合わせてご馳走様をした。
翌朝、香帆はいつもより2時間早く目覚ましをかけたのだが、アラームが鳴る前に解除した。ほとんど寝ることができなかったのだ。隣町の倉橋の家まで自転車で40分はかかる。できるだけ早く家を出なければ。
まだ薄暗いリビングの明かりをつけて、香帆はテキパキと化粧を済ませた。気が急いて、朝食まで頭が回らない。忙しい朝のために用意してあるインスタントコーヒーにケトルからお湯を注いでいると、母がキッチンに顔を出した。
「早いなあ、おはよう」
「ごめん、起こした?」
「ううん、トイレ。ああ、そうだ。羽毛布団のカバー洗うから、外しといてね」
昨夜母がそう言っていたことを思い出し、香帆はコーヒーに口もつけず、2階に駆け上がった。
朝晩はまだ十分寒い。羽毛布団の厚掛けは5月過ぎまで必要だろう。香帆はベッドの上に布団を広げた。ボリュームは少ないが、まだまだ使えそうではある。
これは香帆が就職して家を出る以前からずっと掛けていたものだ。布団屋で働き出して、布団には少し詳しくなった。自分の布団がどのくらいの品質なのか、そういえば知らない。
香帆はファスナーを開け、布団とカバーの間に手を突っ込んで、ループに結んであるヒモを解く。
カバーを半分剥がしたところで、香帆は「えっ?」と声を上げた。
「うそでしょ・・・?」
慌てて最後のヒモを解き、ベッドの上に現れた羽毛布団を前にして、香帆は全身を硬直させた。
それは店で香帆の一番のお気に入り、淡い藤色のボーダー柄の布団。倉橋に届けたはずの布団だったのだ。
「おかあさん!」
大声で母を呼ぶ。
いつもカバーが掛かっているし、それを洗濯するのは母なので、自分の布団の模様など覚えていなかった。
(どういうこと?)
この柄は新作だと聞いている。それともただ似ているだけなのだろうか。香帆はカーテンを全開し、朝日の届き始めた窓辺に布団を引っ張っていくと、日に照らされる柄に目を凝らした。
間違いない。藤色のボーダーの中に描かれた繊細なつる草のタッチも、ラベルに表示された内容も。
これは倉橋の前に広げてみせた羽毛布団に間違いない。
香帆は鳥肌を立てて、布団の横にへたり込んだ。
「なあに? すごい声出して」
母が2階に上がってきた。
「おかあさん、この布団、どうしたの?」
声が震える。
「え? これ?…」
母は事も無げに答えた。
「おとうさんが持ってきたんじゃない」
「え?」
「おじいちゃんが亡くなって少しした頃、香帆が大学の入学式の少し前よ。『明日おとうさんがお線香あげに来るよ』って言ったのに、香帆、友達と約束があるからって、出かけちゃったの。覚えてない?」
覚えていないわけがない。
「その時、おとうさんがその布団持ってきたんだ。香帆にって。大学合格のお祝いだって。でも香帆にちゃんと言ったわよ、おとうさん布団くれたよって。でもまあ、布団はもう使わない時期だったしさ、そのまま押入れにしまって、ようやく使ったのは、次の冬だったからね。忘れちゃったんでしょ」
思い出した。でも、完全に忘れていた。布団なんて、その頃の自分には、きっとそのくらいのものだったかもしれなかった。
香帆は茫然として、使い込まれ少し色のあせた羽毛布団を眺めた。
娘にあげるのだと、照れ臭そうに笑う倉橋の顔が目に浮かんだ。
「私、ずっとこれ掛けてたんだ・・・」
「そう」
母は羽毛布団を撫でながら、香帆に目を向けた。
「どうしたの? 香帆、顔色悪いわよ。具合悪いの?」
香帆は跳ねるように立ち上がった。
「え? なに急に・・・」
戸惑う母の横をすり抜けて、転がるように階段を駆け下りる。コートを羽織り、玄関のドアを押し開け、自転車に飛び乗って、県道に走り出た。
幾度となく後悔した。
あの日、母がうれしそうに「おとうさんが来るの」と自分に告げた時、香帆は思ったのだ。自分はいない方がいいんだと。
あの最後の夜、駅のホームで父の胸にすがった母の姿を思い出し、できるだけ2人きりにさせてあげようと決めた。
友達と会う約束などしていなかった。予定は後から作り、友達と映画を観に行って、結局夜遅くまで遊ぶことになってしまったが、仲の悪い祖父も亡くなったし、父とはきっとこれからは自由に会える。こちらから会いに行けばいいのだと軽く考えた。
そして、父はその一年後に、遠い異国で事故に巻き込まれて亡くなったのだ。父の親戚から知らせが届いたのは、とっくに荼毘に伏された後だった。
自分はいつでもそうだった。相手の気持ちや立場を思い、自分を抑制することができた。頭の良い人間は、それが容易にできてしまう。加えて生来寛容な性格でもあるのだと思っていた。
香帆は唇をかみしめた。
違う。そう思おうとしていただけ。ただ単純に我慢していただけだった。恰好をつけて自分を守っていただけだったのだ。なんて馬鹿だ。
駅のホームで自分だって泣きたかった。10年前のあの日だって、本当は父と会いたかったのに。
香帆は全速力でペダルを踏んだ。
普通ではないことが起こっている。
今まさに、この時にだけ触れることを許された、何か大きな出来事があの場所で自分を必ず待っている。
早く行かなければ。
それは熱い確信となって香帆の体を貫いていた。
県道から、淡い緑の山々に囲まれた丘の上の住宅街が見えてきた。早朝の白々とした薄青い空の下、朝日が家々の壁を片側だけ明るく照らす。まだ裸のままのイチョウ並木に挟まれた大通りの上り坂に差し掛かり、電動アシストのスイッチを入れた。
バス停の次の角を曲がる。2本目の角には満開の桜。香帆は自転車を公園のわきに止め、道にせり出す桜の下を迷いなく歩き出す。
突然の風が桜の木を大きく揺らし、枝から離れた花びらが、花吹雪となって香帆の目の前に降り注いだ。
ああ、昨日もこうだった・・・。
熱い予感に胸が騒ぐ。目の前が霞むほど舞い散る花びらの中を、吸い込まれるように潜り抜けた先。
「あった・・・」
白いペンキのところどころはげた二階家。ガランとしたコンクリートの駐車スペース。門扉の向こう、玄関の横に咲くレンギョウの花。空は青く、野鳥の声が響き渡る。
心臓が壊れそうなほど、鼓動が激しく胸を叩き、熱を帯びた血液が香帆の全身を巡る。
おもわず門扉に走り寄ろうとした時だ。カチリとドアが開き倉橋が現れた。倉橋は玄関からゆらりと外に出て、ポストに差し込まれた新聞に手を伸ばした。倉橋の視線がふと香帆に向く。しばらく呆けたように香帆を眺めていた顔に、突然パッと赤みが差した。
「香帆?」
香帆の全身に痛いほどの鳥肌が立った。
(おとうさん!)
ああ、でもなぜ自分を香帆だと分かるのだろう。
緩い風が髪を揺らす。自分の胸元でサラサラ流れる長い髪に、香帆は目を見張った。
そうか。そうなのだ。
あの頃に帰っている。成人式で髪を結い上げたくて、ずっと伸ばしていた高校時代。
そう。ここは10年前だ。本当は父に会えるはずだった18歳のあの日の姿に、今自分は戻っているのだ。
「香帆なのか?」
気の遠くなるほどの喜びが、すべての不思議を押しのけた。
香帆は長い髪を弾ませて、門扉を開けた倉橋のもとに駆け寄った。
「おとうさん!」
「香帆、本当に香帆なんだな。大きくなった!」
倉橋はうれしそうに香帆の全身を眺めた。
「入っておいで。よくここがわかったな」
香帆はハッとして倉橋を見つめた。首を横に振り、握った拳に力を込めた。
「ごめん、ごめんね、おとうさん、会ってあげられなかった」
倉橋は香帆の顔をのぞき込むようにして言った。
「謝るのはおとうさんのほうだ。ずっと迎えに行ってやれなくてごめんな」
(違う、そうじゃない。そうじゃないの!)
「でも、いい仕事が見つかったんだ。ちょっと日本を離れるけど、あと少しでまた一緒に暮らせるよ」
香帆は弾けたように怯えた顔を上げた。
「だめ、行っちゃだめだよ。お願い、行かないで」
「なんだ、香帆。どうしたんだ?」
悲しみが大波のごとく押し寄せる。
「だめ! 行ったらおとうさん死んじゃうの。事故に遭って死んじゃうんだよ」
止めなければ。どうすればいい?
脳みそがグルグルかき回されているようだ。めまいがして思考が止まりそうになる。
なんて言えばいい? どうしたらわかってもらえるの?
突然、早朝の空の下に倉橋の朗らかな笑い声が響いた。香帆が驚いて悲痛な顔を向けると、倉橋は長い腕を伸ばし、そっと香帆を抱き寄せた。
「大丈夫だよ。心配してくれてありがとな」
温かくて広い父の胸。切なさが胸を駆け上がり、涙となって溢れ出た。別れの時、抱きしめてくれた温もりが、今またはっきりと蘇る。香帆は幼い子どものように、倉橋にしがみついて泣いた。あの夜飲み込んだ悲しみも、こぼさなかった涙も、全部一緒に流れていく。
(会いたかった。おとうさん、会いたかった)
倉橋は香帆の髪を優しく撫でながら「ごめんな」と言った。
開いたドアの隙間から、沸騰を知らせるケトルの笛の音が聞こえてきた。
「ほら、もう泣きやめ。かわいい顔が台無しだぞ」
倉橋は大きな親指で香帆の涙を拭う。それから「おっ」と小さく声を上げ、香帆の長い髪に巻きついた桜の花びらをつまみ、香帆の目の前にかざして微笑んだ。
端正な顔立ちに優しい目元。口ひげが無かったらもっと素敵だ。
(私、忘れないから。おとうさんの顔も、この時間も)
そよ風が公園の桜を揺らし、あたりに花びらがまたハラハラと舞い始めた。香帆の胸が焼けるように痛む。
ああ、もう終わる。この魔法のような時が。変える事のできない未来に戻るのだ。
香帆は手を伸ばし、倉橋の腕をつかんだ。
「おとうさん。大好きだよ。忘れないで。私、おとうさんが大好きだよ」
「おお、そうか。ありがとな。おとうさんも香帆を大好きだ」
穏やかに笑う倉橋の背中越しに、花吹雪が舞っている。花びらはやがて香帆と倉橋の間にも入り込み、あっという間にあたりを淡いピンクに染めていく。ふと、桜の紅茶の甘い香りが鼻をかすめた気がした。白いマグカップを片手に微笑む父と、確かに過ごした奇跡の時間。香帆は、青空から無限に降りそそぐ花びらを仰ぎ見た。
このままこの手を離さなければ、もう一度奇跡が起こるだろうか。
倉橋の腕をつかんだまま、香帆は舞い散る桜の中に立ち尽くした。
「それにしたって早起きだな、香帆は。本当にびっくりしたぞ」
うれしそうに弾む倉橋の声。
「さあ、中に入ろう。お湯も沸いたし、今紅茶をいれる・・・」
突然手の中にあった倉橋の腕の感触が消えた。
丘の上の住宅街は朝日に屋根を輝かせ、新しい一日が始まろうとしていた。
手のひらを茫然と眺める香帆の大きな目から、涙がとめどもなく流れ落ちる。
『桜は差し引いて有り余るほどの幸せをくれる・・・』
香帆は、コートの裾から足元にハラリと落ちた、一片の花びらに目をやると、道の端で肩を震わせてしゃがみ込んだ。
梅雨の晴れ間、久しぶりの初夏の日差しが駅前商店街に思う存分降り注ぐ。
店頭に並べられた小物類を強い日焼けから守るため、香帆はUV加工された布を、ひな壇に広げた。
季節はあっという間に通り過ぎる。今日もまた夏日になりそうだ。
あの朝、香帆は、しばらくの間公園のベンチに寝転んでいた。重なり合う枝をくるむように咲く満開の桜を見上げていると、何もかもが夢ではないかと思えた。ならば、自分はどこから幻を見ていたのだろう。
ようやく立ち上がり自転車に戻ると、倉橋家だったはずの家の前で、おばあさんが道路を掃いていた。香帆は思いきって声をかけた。
「あの、すみません。このあたりに倉橋さんっていうお宅、なかったですか?」
おばあさんは「ええ」と頷いて、自分の家を振り返った。
「私たちが越してくる前は、ここに倉橋さんという方が住んでらしたわよ。もう十年になるかしらね。海外に行かれたって聞いてるけど」
おばあさんはそう言って微笑んだ。
家に戻ると、香帆は母に話をした。母は意識の飛んだような顔をして「信じられない」とつぶやいていたが、突然「思い出した」と言って宙を見た。
「おとうさんに、今日香帆いないって伝えた時ね、残念そうな顔をしたんだけど、でも笑って言ったんだ。『朝、会ったからいいよ』って。
『ええ? どこで?』って訊いたら『たぶん夢でね』ってまた笑ってた。ああ、それから・・・」
母は香帆に目をやると、突然涙をあふれさせた。
「布団屋さんの女の子がとってもかわいくて、香帆もあんな子になるといいな・・・って。おとうさん、香帆に本当に会えてたんだね」
あの日、父は10年の時空を超えて、布団を買いに香帆のいる布団屋に来た。香帆もまた舞い散る桜の花をくぐり、10年前の父に会いに行ったのだ。
なぜあんな不思議なことが起こったのか、香帆には知る由もない。
「もしかして、おとうさん、どこかで感じていたのかもね。香帆にもう会えなくなるんじゃないかって。きっと何としても香帆に会いたかったのよ」
母はそう言ってまた泣いた。
そして香帆もまた、父に会いたかったのだ。
配達から帰ってきた井上が、タオルで汗だくの首筋を拭きながら「いやあ、ここは気持ちいい。涼しくって天国だな」と幸せな顔をして笑う。
「そうでしょう。冷房強めにしておきましたから!」
バックヤードにいた香帆は、冷蔵庫から冷えた麦茶を取り出すと、ニッコリ笑って井上に差し出した。
「ああ、ありがと・・・」
さっさと店内に戻る香帆のうしろ姿を眺める井上の背中を、パートの森山がパンと叩く。
「可愛いからって、なに見とれてんのよ!」
「いやあ、そうじゃなくって。香帆ちゃん最近変わってない? なんか・・・」
「そうね。なんだか柔らかくなったわね。優しくなった。私もそう思う。彼氏でもできたかな」
「ええ? やっぱりそう?」
「ほらがっかりしてるじゃない!」
森山は声を上げて笑った。
「はい、こんにちは!」
カナリアさんが真っ赤な顔をして店に入ってきた。香帆はやれやれとため息をついた。
「佐野さん、大丈夫ですか? こんな暑い日に出歩いたりして」
「病院なのよ。ああ、冷房涼しいねえ」
「まず汗拭かないと。お水ちゃんと持ってます?」
香帆はカナリアさんをベッドに座らせて、新しいマットレスが印刷された販促品のうちわで扇いでやった。
人は皆様々な思いを抱えて生きている。布団屋に来る人たちと自分との接点は、ほんの小さなものかもしれないが、これも確かに縁なのだろう。だから、ひとつひとつの出会いを丁寧にしていこうと、最近香帆は思うのだ。
自分に正直に、力を抜いて素直に生きよう。あの日父が教えてくれたことだ。
掃き出しの窓の外に、淡いピンクの花びらがハラハラ舞い散る春の朝、紅茶の香りと野鳥の声。ずっと話を聞いてくれた父の優しさを、自分もきっと持っている。
おとうさん、いつか私もなれるだろうか。いつでも誰かの力になれる、そんな桜のような強い人に。
おわり