【短編小説】湘南ねこ
「いい天気だ」
男は開店の準備を整えると、古い肘掛椅子を店の入り口のわきに置いた。ネコはいつものように椅子に飛び乗ってゴロリと横になる。お決まりのポーズだ。目を細め、男はネコの首筋をなぜてやった。
男の店は2階建ての木造で、水色に塗られた外壁は、塩と風にさらされて、ペンキがところどころはげていた。白抜きで「中華そば」と書かれた赤い暖簾が、ハタハタとたなびいている。
風が心地よい。ひとしきり体をなめると、ネコは鱗のように光の粒を跳ね返す水平線に目をやった。
ネコには秘密があった。
晴れた日は波の音を聞きながら、日がな一日椅子の上でのんびりと過ごし、青い夕闇が海と空とを飲み込む頃、薄っすらと輝き始めた星空の下を、男の車で家に帰る。
茶トラ模様のたっぷりした体格におっとりとした性格。ネコは店の客にも可愛がられ、うまいものを食べて気ままに暮らしていた。
それでもネコは待っていた。妖しい雲が空を覆い、白波が荒れ狂う海を、ネコは再びやってくる嵐の日を待っていたのだ。
中心気圧は986ヘクトパスカル。瞬間最大風速55メートル。現在紀伊半島の沖40キロを時速24キロで北北東に進んでいます…。
「来やがるな…」
男は半開きのシャッターをくぐり、外に出た。9月半ばの生暖かい空気が塩に焼けた男の肌に浸みこんでくる。
男の店は相模湾を望む国道134号線沿いにあった。周りはこの10数年でファミレスやコンビニが立ち並び、驚くほど様変わりをしていた。その中で男の営むラーメン屋は、まるで波にもまれるフジツボのように、必死にその場所に張り付いているように見えた。もう何十年もここで店を構えている。海鮮系のだしがきいた塩ラーメンはファンも多く、女房の生きていたころは、地元のタウン誌の取材を受けたこともあった。
男は店の裏に回り、下屋から土嚢を引っ張り出した。夜には国道を超え高波が押し寄せるかもしれない。
潮のにおいが濃い。雨はまだ来ないが、空は暗く、時折黒い煙のような雲が低いところを東に飛んで行った。海はすっかり色を失って、灰色の砂を巻き上げた巨大なうねりが白波を立てながら幾重にも岸に打ち寄せてくる。このあたりは海抜が高く、湾の中ほどにある男の店からは、大きく弓なりにしなる浜の両端まで海岸線がよく見渡せた。
細く老いた腕で、男は黙々と壁際に土嚢を積み上げていた。と、ヌルリと足元にすり寄るものがある。
「エディー!」
男は唸り声を漏らしながらネコを抱き上げて、車の中に放り込んだ。車内は蒸し風呂のようで、男はエンジンをかけ、ネコのためにエアコンをつけてやった。
「まったくよう…なんだってあいつはこんな日が好きなんだか」
ついさっき、男はネコを丘の上の自宅に連れ帰ったばかりだった。
3年前、台風がこの小さな半島の真上を通過した日も、ネコは家を抜け出してここから動こうとしなかった。店の入り口に土嚢をこれでもかと積んだ後で、雨も降り出していた。その時は家から歩いて来ていたので、今日のように連れて帰れる車もなかった。仕方なく、男は下屋の隅の雨風が当たらない場所に、ドラム缶を横倒しに固定して、小さな寝床を作ってやったのだった。
「お前ももう年だからな、今日はここに置いとくわけにはいかねえよ」
男はため息まじりにつぶやいた。
ひとしきり働いて、男が痛む腰に手をやったところで、にわかに前が騒がしくなった。国道をはさんで広めの駐車場が海にせり出している。そこにワゴン車が止まり、若者が2人降りてきた。車から騒がしい歌がガンガンと漏れている。
「いいじゃん、いいじゃん!! 来てるよー、この波!」
「ほんっと、日本じゃあ、台風でも来てもらわなくっちゃあ、波に乗る気もしねえよ」
「うっそー、だいじょうぶー? けっこうやばくない?」
マスカラをバチバチさせて女の子が心配そうに窓から顔を出した。
「やばくなーい? やばいっすよ! 最高っすよ!」
ひとりが車からサーフボードを取り出そうとした。
「馬鹿野郎!」
一瞬固まった3人は、罵声の飛んできた方を見た。枯れ枝のような白髪の男が、下げた拳を震わせて、仁王立ちで睨んでいる。
「なんだあ、じじい!」
ひとりが凄んだ。
「なんですか?」
もうひとりがゆっくりと男に向きなおった。「こ、こんな日に、う、うかれやがって! 馬鹿野郎が!」
男は国道をはさんでなおも怒鳴り声をあげる。
「はぁ? なにこのじじい、気ぃ狂ってんじゃねえの?」
「俺らがあなたに何かしましたか?」
車が何台か通り過ぎる。
「行こうぜ。時間がもったいない。見ろよ、いい波じゃん!」
「じじい、馬鹿はてめえだってぇの! ったく気分がわりい」
2人は男に背を向けた。
「馬鹿野郎!そんなに死にたきゃ死にやがれ!!」
「なんだとぉ、くそじじい!!」
ひとりがくるりと身をひるがえし、すばやく道路を横切って男の前に立った。もうひとりも車が通り過ぎるのを待って、道を渡ってきた。2人は男を乱暴にシャッターに押しつけた。
「何なんだよ。すっげえ気分わりいんだけど、なぐられてえの?」
胸ぐらを掴まれて身動きがとれない男は、それでも2人を睨み続ける。その時、
「どうした? 何してるんだ? おまえら離れろ!」
かっぷくのいい年配の男が、軽トラから顔を出して睨んでいる。このあたりの漁労長だ。「どうした、三郎さん、大丈夫か?」
「こいつら、海に…」
「海ぃ?」
漁労長は青年たちの格好をまじまじと眺め、ため息をついた。
「ここいらは遊泳禁止だ。だいたい警報が出てる。海には入れねえよ」
穏やかな声だが目つきは鋭い。
「いや…ちょっとこの人むかつくから…」
「いいからもう帰れ。彼女も心配してるぞ」
漁労長は顎を注車場に向けた。
2人はばつの悪そうな顔で後ずさりし、国道を渡り車に乗り込んだ。
「てめえこそ死ね!くそじじい!」
若者たちは窓から顔を出して毒づくと、カーステレオのボリュームをめいっぱい上げて、急発進で小田原方面に消えていった。
波のしぶきが風に乗り、磯のにおいが顔にからみつく。雲はますます垂れ込めて、薄暗い海沿いの通りに、人影の少ない店々の明かりが妙に怪しく浮いていた。
「大丈夫かい、三郎さん」
「なんともねえ」
いよいよ風が強くなってきた。停電に備えて冷蔵のものはすべて自宅に引き上げてある。男は首にかけたタオルで額の汗をぬぐい、最後に入口のシャッターを下ろして、高波が店に入り込まないよう、念入りに隙間なく土嚢を並べた。
さて帰るか、と車のドアを開けた途端、ネコが待ち構えていたようにスルリと外に出た。
「あ、こら! エディー!」
ネコはトントンと小走りに店の裏に回ると、3年前男が作ってやった寝床の中にもぐりこんでしまった。
「だめだって。今日はいけねえよ。ほら、こっちにこい」
男は這いつくばってドラム缶の中に手を伸ばした。うずくまるネコの前足をつかみ、ずるずると引きずり出して抱きかかえようとした瞬間、ネコは暴れだし、男のひるんだすきに、またドラム缶の奥に引きこもってしまった。
「おめえ、そんなにそこがいいのかよ、ほんとうに、なんだって…」
腕につけられた爪痕に血がにじむ。男はそれを手のひらでこすりとり、チッと舌打ちをした。
「好きにしやがれ。知らねえからな」
それでも、万が一雨水が流れ込んだら大変だと、男はドラム缶の入り口に半分ほど土嚢を積んでやった。
バラバラと大粒の雨が落ちてきた。男は手早く後始末をしてラーメン屋をあとにした。
その日の夕方になって、三浦半島は暴風域に入り、どしゃ降りの雨に加え、町中でも傘のさせないほどの強風が吹き荒れた。やがて日付が変わる頃、嵐はピークに達していた。ラーメン屋のある海沿いでは、荒れ狂う風が雨と波しぶきを巻き上げて、立ち並ぶ建物に四方八方から容赦なくたたきつけた。ラーメン屋の壁はガタガタと震え、若い松の木は枝が地面にすれるほど大きくしなる。砕ける高波と唸る電線。吹き飛ばされた看板や鉄屑がアスファルトの上を一気に滑っていった。
ネコはドラム缶の中で丸くなり、嵐の音を聞いていた。
どのくらい経っただろう、ふとあたりが静かになった。ネコは大きく伸びをして、土嚢とドラム缶の間からそっと顔を出した。雨も風も止んでいる。ドラム缶を抜け出し、足の裏でピチャピチャと音を立てながら、ネコはラーメン屋の表に回った。砕ける波の音だけが、濡れてひっそりとした海岸線に響いている。空には月が出ていた。その下に広がる高波の彼方、水平線をネコはじっと見つめていた。
ふいにネコの目が輝いた。長い尾がピンと上を向く。足早に国道を横切り、ネコはがらんとした駐車場に立った。
来た!
遠くから歓声が近づいてくる。月明かりに照らされて、沖から迫りくる大波に3つの影が浮かび上がる。荒波にサーフボードを乗りこなし、ついに彼らはやってきたのだ。
「やっほー!! サイコーだぜー!!」
「わが愛しき浜辺よ!!」
歓声を上げ、ひとしきり波乗りを楽しんだ後、ペタペタと階段を上る音がして、ようやく彼らはネコの待つ駐車場に姿を現した。街灯に浮かび上る彼らは、サーフボードをわきに抱え、海水を滴らせた、まだ20歳そこそこの青年たちだった。
ネコは鳴きながら彼らの足元に走り寄った。「おお、エディー! 元気そうじゃん」
背の高い金髪の青年が、ボードを自販機に立てかけてしゃがみ込み、大きな手でネコの頭を包むようになぜた。焼けた肌にシルバーのブレスレットがキラキラ光る。ネコは鼻の下をふっくらと膨らませ、ヒゲを立てて、ゴロゴロと喉を鳴らした。ネコは彼を待っていたのだ。
「3年ぶりかぁ、こいつももういいかげん年だろ」
坊主刈りの青年も中腰で手を伸ばし、ネコののどをくすぐってやった。3人目の青年は太った体を持て余すかのように、どてっとコンクリートに足を投げ出して座りこんだ。月明かりが、街灯とは別に、駐車場に四つの影をくっきりと映し出す。
「いいものやるよ」
金髪の青年がのどをクックと鳴らすと、口から小魚を吐いた。
「さっき飛び込んできたんだ」
太っちょがのぞきこんだ。
「イワシかよ、しけてんなあ」
「っていうか、きたねえだろ、ふつう」
坊主頭がカッカッカと笑う。
「うるせえよ。いいの。おれの猫だから」
ネコは新鮮な魚に思いきりかぶりついた。金髪の青年は満足そうにそれを眺めていた。
「それにしても、変わったなあ、ここいら」「ああ…」
3人は国道沿いを見渡した。人気のない店や看板の明かりが濡れた道路にカラフルな色を映し出す。
「まったくよくやってるよ、こんな中で」
金髪の青年が目の前のラーメン屋に目をやった。
「味じゃねえの? うまいじゃん、おやじさんのラーメン」
そう言って、太っちょが切なそうに唸った。「ああー、食いてぇー」
「おめえ、三杯は食ってたべ」
「チャーシューが絶品でさぁー」
「やっぱスープでしょ。研究してるぜ、あれは」
ネコはイワシを食べ終えると、またゴロゴロと喉を鳴らし、金髪の青年の膝に頬をすりよせた。
「エディー、まだまだいけるな、結構長生きしてるよ、おまえ」
「ニャー」
坊主頭が太っちょを振り返って言った。
「返事すんのがかわいいよな、エディーってさ」
「それにしたってエディーって顔してねえだろよ。ただの茶色いトラネコじゃん」
「カッカッカ!!」
坊主頭がまた高笑いをした。金髪の青年は首を傾けて、愛おしそうにネコの顔をのぞいた。「エディー・アイカウつったらサーファーの神様だからな。カッケーだろ?」
「こいつが神様って顔か?」
「っていうか、誰それ?」
太っちょは笑いながら伸ばした足先をネコに向け、太い指でゆらゆら揺れるしっぽにふれた。
「うるせえな、いいんだよ。なあエディー、おまえもいつか海に出るんだ。おれたちが連れて行ってやる」
「そうだぞ、エディー! すげえだろ! 世界中の波をゲットだぜ!!」
「魚もたらふく食えるしな!」
ネコはふっくりと目を細めて青年たちを見上げた。
星空はいつの間にか消えていた。
「今度はいつ来れるかなー!」
太っちょが暗い海に叫んだ。
「わかんねえなー」
「来年とか…」
「だといいけどなー」
風が戻ってきた。
「そろそろだな」
「行くか…」
3人は顔を見合せて寂しそうに笑った。
丘の上の家を出て、男は海に向かって車を走らせた。今回の台風は並みじゃない。目に入って静かなうちに、なにが何でもネコを連れてこようと思っていた。
国道に出て左折。車は一台もいない。ラーメン屋はすぐそこだ。と、男は手前でブレーキを踏んだ。がらんとした駐車場に人影が見える。いくらなんでもこんな夜に、だれが好き好んで海まで歩いてくるだろう。胸騒ぎがする。男は少し手前のコンビニの駐車場に車を滑り込ませ、建物の裏を通ってラーメン屋の裏手から回って近づいた。
エディーがいる。
その周りに街灯に照らされた3人の男たち。自販機の前に座り込む若者の顔を見て、男の全身に震えが走った。
(こんなことって…夢じゃねえか?…)
男は何度も目をこすった。心臓が激しく波打ち、息がつまりそうになる。
(隆明…?)
頭を金髪に染めた青年は、まぎれもなく男のひとり息子に違いなかった。20年前、台風の近づく海に出て命を落としたわが子だった。坊主頭と太っちょは、一緒に逝った息子の幼なじみの子どもたちだった。波の音でかき消され、何を話しているかは聞こえないが、ネコを真ん中にして、皆それぞれにいい顔をして笑っている。なつかしい笑顔だった。男の目から涙があふれた。
金髪の青年は、ネコを抱き上げて頬ずりをすると、そっと下におろした。3人は立ち上がり、ボードを抱え、またかわるがわるネコをなでた。
(ああ、行っちまうんだ!!)
声が出ない。
(待ってくれ。エディー、あいつらを止めてくれ!)
男は思わず両手を伸ばした。その時だ。突然波の音が止まった。駐車場が白い光に包まれている。
道路を挟み立ち尽くす男に、3人の青年が顔を向けた。幼なじみの2人は神妙な顔をして、ひょいと頭を下げる。金髪の青年は男から目をそらし、ネコに話しかけた。
「じゃあまたな。元気でいろよ。こんどはシマアジ持ってきてやるよ」
「すげっ! 高級魚じゃん!」
太っちょが口を出し、坊主頭にけりを入れられた。3人は男に背を向けて海に向かって歩き出す。
やっとのことで男は喉を振り絞り、ちぎれるような声で叫んだ。
「タカアキ!」
金髪の青年が足を止め、ゆっくりと振り返った。今度はしっかりと男を見つめ、ふっと微笑んだ。
「おやじ…ごめんな…」
気がつくと、男はネコをしっかり抱いて嵐の中に立っていた。砕ける波の爆音と突風に足をすくわれ、男はよろめいてその場に倒れこんだ。
まぶたの裏に光を感じ、男は目を開けた。見知らぬ部屋に寝かされていたが、すぐに病院の一室だとわかった。看護師が顔を出し、続いて漁労長がそっと入ってきた。
「おお、よかった」
「エディーは…」
「安心しろ。おれんとこで預かってる。いやあ、静かなうちにちょっと浜の様子でも見てこようってよ、車を飛ばしてたら、思ったより早く降り出し始めやがって、なんか予感があったのかもしれねえな、あんたんとこの前を回って帰ろうかと思ったんだよ。そしたら、なんと三郎さん、あんた駐車場に倒れていたんだよ。びっくりしだぜぇ。そばでエディーがニャーニャー鳴いてるんだ。ずぶ濡れでよ」
「…悪いな…迷惑かけた」
「なにがあった?」
「いや…エディーが心配で、ちょっと見に行った…」
「おいおい、いいかげん年だしな、気をつけてくれよ、三郎さん」
「ほんとに…すまんことです」
カーテンの隙間から真っ青な空が見える。「台風一過か…」
「ああ、快晴だよ。うそのようだ」
漁労長はカーテンを開けた。眩しい光が差し込んでくる。海はまだ波が高いだろう。男は目を閉じた。ネコを抱きたかった。
(エディー…そうだったのかい…)
生まれて間もない、捨てられて今にも死にそうだったネコを、どこで調達したのか、おもちゃの注射器でミルクを飲ませ、夜も寝ずに必死に育てたのは隆明だった。
腕に残る爪痕に、男はそっと手のひらをあてた。
「なあ、漁労長、次はいつ来るんだろうなあ」「台風かよ? 馬鹿言ってんじゃねえよ、こりごりだろう?」
漁労長は目を丸くしたが、男はすまねえと言って少し笑った。
(エディーよ、今度は一緒に待つとするか…)
とびが空の高いところを潮風に乗って、ふんわりと横切っていった。
ラーメン屋の店先で、今日もネコは座っている。国道134号線に連なる車の群れや、駐車場に集まる若者たち、その向こうに広がる海と空を眺め、1日のほとんどを気ままにそこで過ごす。嵐になればまた会える大好きな若者と、いつかは自分も海に出る日が来ることを想い。
おわり