嵐をよんだ祖父のはなし
こんばんは、夜な夜な浮上。写真は最近食べておいしかった寿司です。
先日お話した近所に住んでいる祖父の話をします。
1月末に、祖父は亡くなりました。
「自分のお家じゃないから帰る」と主張をし家から脱走し、迷子になった挙句近所やお巡りさんのお世話になるということを繰り返し、1月のある日、
おじいちゃんは二階の窓から飛び降りました。
それまでは介護認定をもらうために病院に連れて行き、診断してもらわないといけなかったのですが、今まで病気したことのないおじいちゃんにはかかりつけ医がおらず、診断書を書いてもらうために通院が必要。ただ認知症だから車に乗せるのも一苦労。暴れるし、帰宅してもここは自分の家じゃないという。
そういう苦労がただただ多くて、家族一同疲弊していたから。
病院に行けて良かったという安堵と、おじいちゃんとほとんど何も楽しい思い出残せなかったかもという残念な気持ち。
思い出なかったから認知症になって私のこと覚えてくれなかったんだよなと。まぁ、しょうがないよな。って。
何週間か病院で意識を失ったまま、そのままかえらなくなり。私の父親に看取られました。(おばあちゃんは足が悪い&深夜だったから行けず)
コロナだから葬式は行わず、火葬場で身内だけでさようならして。
まるで嵐が去ったかのような数か月でした。
どちらかというと、飛び降りたって聞いた時の衝撃が一番だった。
心の中ではよかったと思っていたことは不謹慎なのかもとすこしうしろめたさがあり、でも家族一同同じ方向見てて。謎の一致団結感。
人がいなくなるのはいろいろと辛いよね。
さみしいというのと、残された人の気持ちを思うと。辛い。
でもいつか人は死ぬ。いなくなる。
誰のためになるかわからないような生活をし、人知れず、死んでいく。
じいちゃんは残された私たちには衝撃を残してくれたよ。
私は誰かのためになっているだろうか。これから誰かに何かを残していけるのだろうか。
わからないけれど、どうやって生きていこう。
今後の課題。生き方を見つけないといけない。
生きるって難しい。