ラマダンの断食には抜け道がある
3月10日の夕方からラマダンが始まった。約一か月の間、ムスリムたちは日の出から日没まで断食をする。水も飲まない。
世界のムスリムの人口は約19億人である。単純計算で世界人口の約4人に一人がムスリムである。しかし、もはや尊敬に値するこの断食を、19億人全員がしているわけではない。
イスラーム圏で生まれ育った友人たちと話しているとよくラマダン期の「冒険記」で盛り上がる。食べ盛りの10代に、どうやってラマダンの抜け道を探して食べ物にありついていたか、という話である。
家にいても、両親はラマダン中であるため食べ物を作ってくれない。ましてや、両親が真面目なムスリムである場合は、日が出ている間に親の前でなんかご飯を食べられない。でも、おなかすいて死にそう。
じゃあどうするか?
実は、「旅行者向けレストラン」に駆け込む、という手段があるらしい。旅行者であればラマダン中の断食は免除されるというルールがある。この旅行者向けレストランは、ラマダン中はカーテンが掛けられ、中の様子は外から見えないようになっている。
飢えた10代の少年たちは、家から少し距離のあるその旅行者向けレストランまで「小旅行」し、ご飯にありついていたらしい。不思議なことに、レストラン内には、地元の知り合いと遭遇することが高確率であるらしい。みんな考えていることは大体同じ。
厳密には、旅行者であったため、断食できなかった日数分は、ラマダン期間外に断食しなければならない、ということになっている。しかし、そんな計算を、この少年たちがしていたかどうかは、誰も知らない。
しかし、この作戦は失敗することもある。イランでは、イスラム教の戒律を守らないと罰せられることがある。
ある日、ラマダン中にレストランまで「小旅行」していた少年たちは、日が出ているうちにご飯を食べていることが、地元の警官にバレてしまった。その罰則として、少年たちは、水でいっぱいのバケツと空のバケツとスプーンを渡された。そして、バケツの水を空のバケツにスプーンで移す、という作業を炎天下の元でさせられたらしい。
女性にはさらに「抜け道(?)」があるようだ。インドネシアのムスリムの女友達によると「生理がラマダン期間に重なると、生理期間中は断食しなくていい!」らしい。まさしく「女性の特権」とのこと。
もちろん、断食できなかった日数分は、ラマダン期間外に断食しなければならない、ということになっているらしいが、そんな計算を、彼女たちがしているかは誰も知らない。
「ラマダン期間中に生理がくると、ラッキー!!ってなる。こういう時、女でよかったな~なんて思う。あはは」
なんて、その友人は屈託のない笑顔で笑ってる。
こういうエピソードを聞いていると、「やっぱり人間だな」って思う。「ルールは破るためにある」なんて、よく言ったもので、結局人間ってそういう生き物なのかも。少なくとも日本で井の中の蛙だった時の私が感じていた、欧米系のメディアから日本に入ってくる「過激なイスラム教徒」のイメージ、世界史で語られる「戒律の厳しいイスラム教」のイメージとは全然違う。最近はそんなイメージを払拭するために、イスラム教の美談的な記事や本を見ることが増えた気がする。それはそれで良いとして、禁欲中にいかに欲を満たすかに奔走する、あまりに人間らしい彼らのエピソードも知ってもらいたいと思ってこの記事を書いている。
仏教でもイスラム教でも断食をする意味というのは一応存在している。貧しくて十分に食べられない人たちの気持ちを理解するためだったり、一切の私利私欲を排除して自分を見直すためだったりする。
昔の偉い人がそう考えてこのルールを作ったのは、頭では「なるほど」と理解はできるけど、全員がそれを実行できるかは別の話である。ましてや、「断食の意味」の受け取り方、価値観は人によってさまざまだと思う。断食中にバナナを食べたくて、バナナを飲み物にしようと奮闘した尼さんもいるくらいだし。
私利私欲を排除することが断食の本来の目的であったはずなのに、いざ食欲を押さえつけられると、今度は逆にあれこれ策をめぐらせて、結局は食欲を満たそうと奔走する人たちが一定数いる。これが仏教世界にもイスラーム世界にも共通していることが面白い。断食期間は食欲を排除するどころか、食欲を満たすことだけを考える時間になっている。
しかし、今考えるときっとこれも「飢え」を知るための過程なのかもしれない。昔、ミャンマーで尼さんをしていた時、朝ご飯は朝5時、昼ご飯は朝11時、それ以降食事は一切なしという生活だった。今思い出すと、午後にお腹が空いてくると、それ以降はもう次の日の朝ご飯のことしか考えていなかった。それは、私がただの欲にまみれた凡人を脱することができなかっただけかもしれない。でもたいていは人間、あまりにお腹が空くと食べることしか考えられないと思う。動物と一緒。
こんな経験をすると、食べ物のありがたみを実感するし、食糧廃棄が必然となるビジネスモデルなんて考えないよ、なんて書きながら考えてしまった。